明石康
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明石 康
2016年12月19日、東京都渋谷区にて
生年月日 (1931-01-19) 1931年1月19日(93歳)
出生地秋田県北秋田郡扇田町
前職国際公務員
現職国立京都国際会館理事長
所属政党無所属
称号旭日大綬章
カンボジア
国際連合事務総長特別代表
在任期間1992年 - 1993年
事務総長ブトロス・ブトロス=ガーリ
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明石 康(あかし やすし、1931年昭和6年〉1月19日 - )は、日本の外交官国際公務員特定非営利活動法人日本紛争予防センター会長、名城大学アジア研究所名誉所長、群馬県立女子大学外国語教育研究所所長、京都文教学園学術顧問、神戸大学特別顧問・特別教授。国際連合事務次長国際連合事務総長特別代表を歴任。
人物・来歴
生い立ち

戦国時代のキリシタン武将の明石全登の子孫であるといわれている[1]。母親の実家は、忠犬ハチ公の生家であった[2]

秋田県北秋田郡扇田町(現在の大館市比内町扇田)出身。築山小学校在学時に秋田市に移住[3]。県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)から旧制山形高校(現在の山形大学人文学部および理学部)を経て、東京大学に進学。1954年東京大学教養学部アメリカ学科を卒業後、フルブライト留学生として渡米し、バージニア大学大学院を修了、コロンビア大学で学ぶ(25歳の時、重光葵による日本の国連加盟受諾演説を傍聴席で直接観たと語っている)。
国際公務員として2016年12月19日、国連加盟60周年記念行事にて

タフツ大学フレッチャースクール博士課程在学中の1957年に、日本人として初めて国連の専門職員に採用され、国連事務局の政治安保理局政務担当官となる[4]。もともと米国留学は研究者を志してのものであり、国連勤務も一時的なものと考えていたというが、日本人国連職員の草分けとして国連に17年勤務。1974年、日本国の外務省に転じ、国際連合日本政府代表部参事官、公使、大使を歴任した(?79年)。1979年、国連に復帰し、事務次長(広報担当、軍縮担当、人道問題担当)に就任。1992年には国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)事務総長特別代表に就任、カンボジア和平につとめた。

1994年には当時進行中であったユーゴスラビア紛争収拾のため旧ユーゴ問題担当・事務総長特別代表に就任する。文官として国際連合保護軍(UNPROFOR)の最高指揮権を附与されていたが、ボスニアにおいて攻勢を強めるセルビア人勢力への対応について指導力・決断力を発揮し得なかった。これについてアメリカ人ジャーナリストのデービッド・ローデは明石ら当時のNATO軍指導部の対応が結果的にスレブレニツァの虐殺事件発生を招いたとして批判した[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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