この項目では、兵庫県立明石公園にある明石城について説明しています。その他の明石城については「明石城 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
logo明石城
(兵庫県)
坤櫓(左)と巽櫓(右)
別名喜春城、錦江城
城郭構造連郭梯郭混合式平山城
天守構造なし(天守台はあり)
築城主小笠原忠真
築城年1618年(元和4年)
主な改修者松平直常
主な城主松平氏(越前系)
廃城年1874年(明治7年)
遺構櫓、石垣、堀、移築門
指定文化財国の重要文化財(巽櫓・坤櫓)、国の史跡
再建造物塀
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度39分10.07秒 東経134度59分30.47秒 / 北緯34.6527972度 東経134.9917972度 / 34.6527972; 134.9917972
明石城(あかしじょう)は、兵庫県明石市明石公園にあった日本の城。旧明石藩の政庁と藩主の居所が置かれた。別名喜春城(きはるじょう、きしゅん-)、錦江城(きんこうじょう)とも呼ばれる。 JR明石駅北側に位置し、駅ホームより間近に望める。縄張りは連郭梯郭混合式の平山城である。丘陵舌端に築かれ、本丸付近は柿本人麻呂を祀った人丸塚があったと言われており、この地は嘉吉の乱で激戦地となった。 明石の地は、山陽道が通り、北には丹波国、但馬国への道が分かれ、淡路島、四国のルートがあり、古来より交通の要衝であった。徳川幕府が西国の外様大名の抑えの城として、姫路城についで着目した。 現在中堀の内側は兵庫県立明石公園として整備され、日本さくら名所100選に指定されている。櫓や石垣は1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災で被害を受けたが全面修復された。 1617年(元和3年)信濃松本藩主より明石藩主となった小笠原忠真は、明石城の西方、明石川河口西岸にあった船上城に入城した。譜代大名たる小笠原氏10万石の居城として城郭を建設するよう、同年に第2代・将軍徳川秀忠より築城命令された。この時の様子を『本田家記』によると、元和六年午の春明石ニ新城を築可申旨、上意ニ而本多美濃守殿右近様御相談、地形見立言上可被成との儀ニ而美濃守明石ヘ両度御方々御見分塩見分塩屋与申処浜ニ少し入江有之ニ一所、亦明石より西かまか坂与申処高き岡あるに一処、又明石人丸山ニ一所御見立有之、御相談之上人丸山ニ極リ ? 本田家記(小笠原文庫蔵)船上城からの移築とされる巽櫓伏見城からの移築とされる坤櫓航路図(本絵図の左上部に明石城が描かれている)/神戸市立博物館蔵 と記されている。この文中にある「元和六年」とは「元和四年」の誤記ではないかと思われ、「本多美濃守殿」とは当時姫路城の城主であった本多忠政の事である。この『本田家記』によると、徳川秀忠より築城命令があり、本多忠政と小笠原忠真は相談しながら(忠政は忠真の義父にあたる)、築城から町割りまで行った。当初検討された地は三ヵ所、塩屋町(現在の神戸市垂水区塩屋町周辺)、かにが坂(現在の明石市和坂周辺)と人丸山(赤松山)が検討されたが、人丸山には大きな池があり城の防備に役立つとして人丸山に定まった。徳川秀忠は旗本の都筑為政 人丸山の地の利を利用し、三木城、高砂城
概要
沿革
江戸時代