明石全登
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明石 全登

あかし てるずみ

あかし たけのり

あかし ぜんとう

あかし じゅすと

 凡例明石 全登
時代安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕不明
死没元和4年(1618年)または不明
別名景盛、守重、守之、全職
通称掃部頭/掃部助、掃部
法号:全登、全薑[1]、斎号:道斎
霊名ジュスト[2]、ジョパンニ[2]、ジョアン[1]
墓所岡山県備前市吉永町今崎[3]
岡山県瀬戸内市邑久町虫明伝高知県香美市香北町白石
官位従五位下左近将監
主君宇喜多直家秀家豊臣秀吉)→豊臣秀頼
氏族備前明石氏
父母父:明石行雄(景親)、母:モニカ[4]宇喜多直家の異母妹)
兄弟全登、女(伊賀家久室)、全延[異説あり]
宇喜多直家の娘
子小三郎[4]景行[注釈 1]内記[注釈 2]
カタリナ[4]、レジイナ[4]
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明石 全登(あかし てるずみ[6])は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名(名前については下記参照)。宇喜多氏の家臣。宣教師を自分の屋敷に住まわせて保護するほどの熱烈なキリシタン武将でもあった。
生涯
名前について

全登を「ぜんとう」と音読みで読むのは法号と解釈してで[7]、霊名からの当て字で「じゅすと」と読むとする説もある[8]。全登をと解釈して訓読みする場合では、『翁草』は「たけのり」と傍訓を施しており[9]、他にも「いえのり」や「なりとよ」と訓を施す書籍もある[6]。「てるずみ」は『日本人名大辞典』に従った[6]

諱は、全登以外にも、景盛(かげもり)や守重(もりしげ)など複数伝わり、定かではない。通称は掃部(かもん)で、明石掃部とも言う。

大西泰正[注釈 3]は「全登」について「これも同時代の史料に見出せない。掃部当人もそう名乗らぬし、秀家やイエズス会宣教師といった周囲の人々もそうは呼ばず、掃部の死後にといってもいいであろう、大坂の陣後まとめられた編纂史料でしか確認できない。従って、諸説ある「全登」の読み方にはこれといった正解は存在しないし、掃部を「全登」と書くのは、真田信繁を「幸村」と称するような問題を孕んでいる」と指摘をしている[10]
略歴

備前国保木城主の明石行雄(景親)の子として生まれた。

生年を知る確実な史料は存在しないが、小川博毅は永禄12年(1569年)前後に保木城で生まれた可能性が高いとする[11]備前明石氏(美作明石氏)は赤松氏の末裔(守護大名赤松円心の次男・赤松貞範の子孫)であり[12]、銅山運営者、技術統率者の側面を持つ一族である[13][注釈 4]

父の行雄は、天神山城主の浦上宗景の家臣であったが、天正3年(1575年)9月の浦上氏滅亡の際には宇喜多直家に呼応して寝返り[14]、以後、宇喜多家に帰属することになった。行雄は弟の景季(景行)と共に、直家とその子の宇喜多秀家に仕えて天正16年(1588年)に諸大夫(従五位下)、4万石の知行までになった。

行雄の嫡子・全登も、行雄が存命中の文禄5年(1597年)4月以前にその跡を継いで[15]和気郡(現備前市吉永町)大俣城(大股城)の城主・家老となったが、領国行政には携わっていない[16][注釈 5]

慶長4年(1599年)、お家騒動宇喜多騒動)が起こって、家宰(執政)の長船綱直が殺害されると、関与した4人の重臣(戸川達安宇喜多詮家(坂崎直盛)岡貞綱花房正成)が出奔したため、全登が家宰として宇喜多家中を取り仕切った[17]。当初、3万3,110石の知行だったが[18]、秀家の岳父である太閤豊臣秀吉の直臣としても知行を貰い、併せて10万石取りとなった[12]

慶長5年(1600年)、徳川家康と対立していた石田三成が挙兵すると、全登は宇喜多秀家に従って出陣し、石田方の西軍に与すると7月から8月にかけて伏見城を攻略(伏見城の戦い)。9月14日杭瀬川の戦いでは、中村一栄をまず撃ち破って前哨戦を勝利し、9月15日関ヶ原の戦い本戦では、宇喜多勢1万7,000のうちの8,000名を率いて先鋒を務めた。宇喜多勢は福島正則を相手に善戦したが、小早川秀秋の裏切りをきっかけとして敗戦。全登は、討ち死にしようとした主君・秀家を諫めて大坂城へ退くように進言し、殿軍を務めた。西軍敗走の際に黒田長政に遭遇したという記述がある[19]

戦後、岡山城に退くが、城は既に荒らされていて、秀家とも連絡が取れずにそのまま出奔。

宇喜多氏が没落し浪人となった全登は、キリシタン大名であり、母が明石一族である黒田如水[注釈 6]の下で庇護されたといわれている[20]。中でも、如水の弟で熱心なキリシタンであった黒田直之が全登を匿ったとされている。如水の死後、息子の黒田長政がキリスト教を禁止したため、柳川藩田中忠政を頼ったとされている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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