明知遠山氏
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明知遠山氏
遠山九字直違(分家が使用)
本姓藤原北家利仁流
家祖遠山景重(遠山氏
種別武家
士族
著名な人物遠山景行遠山利景
遠山景元
支流、分家武蔵遠山氏、相模遠山氏、信州遠山氏
凡例 / Category:日本の氏族

明知遠山氏(あけちとおやまし)は、藤原利仁を祖とする加藤氏一門の美濃遠山氏の分家。

鎌倉時代の初期に遠山景朝の次子の遠山景重(三郎兵衛)が遠山荘の淡氣郷(手向郷)を相続し明知城を拠点としたのが始まりで明治2年(1869年)の版籍奉還まで、ほぼ同じ地域を支配した数少ない武家である。

戦国時代末期に、遠山利景武田勝頼の家臣山県昌景の侵攻により失領。その後一旦領地を取り戻したものの本能寺の変後に、羽柴秀吉の麾下の森長可からの圧迫により明知城を出て三河へ移り徳川家康の麾下に入った。

その後東軍に参加し関ヶ原の戦いにおける前哨戦の、木曽・東濃の戦いにおいて西軍の諸将を撃破して明知城を奪還した。

その功績により江戸時代になって旧領を回復し、幕府の6531石の交代寄合参勤交代を行う旗本)となり、明知城を廃して明知陣屋を本拠地としたが、5代の遠山伊清の時に江戸常駐の旗本寄合席となり、明知陣屋を明治2年(1869年)の版籍奉還まで代官の村上氏に任せた。

菩提寺は岐阜県恵那市明智町にある龍護寺で、江戸時代以降の明知遠山氏累代の墓が現存する。
歴史

宝治元年(1247年)、遠山景朝の子で、明知遠山氏の始祖・遠山景重(三郎兵衛)が明知城を築き代々守護した。[2][注釈 1]その後、景長?朝廉?景忠?景房?頼景?景基?景次?景勝?景保?景成(兄)→直景(弟)ー景行と続いたという(諸説あり)。

弘長元年(1261年)遠山景長が、鎌倉鶴岡八幡宮放生会に供奉(吾妻鏡)。

弘長3年(1263年)遠山景長と岩村遠山氏の遠山景員が将軍宗尊親王の上洛に従った(吾妻鏡)。

文永9年(1272年鎌倉幕府は遠山景長の手向郷の地頭職を取り上げて長井時秀に与えた。

元弘元年(1331年)7月、遠山景房(弥次郎)が恵那郡内の所々(手向郷の内、明知・上下村・荒木村・窪原・佐々良木・安主など)の地頭職を安堵された(慶元古文書)。

元弘3年(1333年)遠山朝廉が手向郷を宛行う綸旨を下賜された。

建武3年(1336年)遠山朝廉が足利尊氏に従う。

延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)に、摂津国湊川の戦いに参加した明知城主の遠山景房が、足利氏より勲功を賞して郡上郡の市島郷の三分の二の地頭職を賜った。

暦応2年(1339年)3月、遠山朝廉が手向郷の半分を領する。12月には残り半分も宛行われた。

貞和3年(1347年)遠山朝廉と長井貞泰が手向郷の領有について争論となったが、朝廉方の遠山景房が勝訴。

正平7年(1352年)3月遠山景房が武功により安房国に領地を与えられた。(券書藪)

明徳元年(1390年)遠山景房の子の遠山頼景が足利義満からの下文により地頭職となる。(券書藪)

明徳3年(1392年)、北朝が南朝の持つ三種の神器を接収し、後亀山天皇が譲位して南北朝合一(明徳の和約)が成し遂げられた。この頃、遠山の氏族には遠山頼景の名がある(遠山家譜)。

応永17年(1410年)遠山景基が手向郷にて知行(岐阜県史資料編)。

応永28年(1422年)『花営三代記』の記事に遠山明知小太郎景時・遠山小太郎景氏の名が記されている。

永享10年(1438年)遠山景次が手向郷にて知行(岐阜県史資料編)。

文安元年(1444年)の『文安年中御番帳』に遠山明知大蔵少輔がみえる[3]

康生元年(1455年)遠山景勝が手向郷にて知行(岐阜県史資料編)。

16世紀初頭、市場城主の小原鱸(鈴木)氏が、三河国加茂郡足助荘仁木郷の一部であった野原村を、領地を隣接する明知遠山氏へ娘を嫁がせる際に化粧料として美濃国恵那郡に割譲した。

遠山氏の宗家は岩村城主の岩村遠山氏であるが、途中で断絶したため明知遠山氏の遠山頼景が、遠山荘地頭となっていた。遠山頼景が岩村遠山氏を継いで岩村城主となった。

永正5年(1508年)遠山頼景が岩村城内八幡宮に奉納したの棟札に、『奉造立八幡宮 大壇那藤原頼景 願主敬白 永正五戊辰年十一月廿八日御代官』とある。

永正5年(1508年)旧暦8月、今川氏親名代の伊勢宗瑞(北条早雲)率いる今川軍が大樹寺を本陣として三河岩津城を攻めた。その際に、遠山景前が松平長親に加勢したという記録がある(三河風土記)。しかし当時は、景前は未だ生まれておらず遠山頼景のことであろうと推測される。

永正8年(1511年)遠山景保が手向郷にて知行(古今書札判物の写)。

大永年間(1521年?1528年)伝えによれば遠山景保の子の遠山直景は明知城を親族に渡して退去し、士卒180名を率いて関東へ赴き北条早雲の配下に入ったとされるが、はじめ室町幕府に出仕し、美濃および美濃土岐氏に関わり深い足利義材(後の義稙)の家臣で(奉公衆であったとも伝えられる)。その頃、同じく幕府に申次衆として出仕していた伊勢新九郎(後の北条早雲)と親密になったと考えられており、遠山氏と同じく関東に下向して重用された、松田氏や伊勢氏ら創業時からの後北条氏家臣らは、この時期の関係者・仲間と思われる。

大永5年(1525年)、遠山景行が、久昌山安住寺を創建。

天文12年(1543年)に遠山景行(惣四郎)が当主となり、その前後に三河加茂郡広瀬の三宅高貞の娘を妻とした。

天文21年(1552年)土岐郡の高山城主の高山光俊(伊賀守)が没したが子が無かったため後継する城主が居ない状態となり、早速、可児郡御嵩城主の小栗重則(信濃守)が高山城を攻めて占領しようとした。そのことを知った肥田民部から岩村城主の遠山景前に連絡があったので、景前は甲斐の武田信玄に早馬を送り相談した。信玄は平井頼母と後藤庄助を大将として、遠山景行・遠山三郎兵衛・遠山左衛門佐・小里光忠(出羽守)・その子の小里光明(内作)・小里助左衛門・小里右衛門太郎らを高山城へ向かわせた。小栗重則(信濃守)も千人余で大富山に陣を取り川端に押し寄せた。遠山・小里・平井・後藤らは浅野村に陣を取り川を隔てて矢を射かけた。小栗は川を渡って戦い高山城に迫ったが遠山景行と小里親子の30余騎が馬上から鑓を執って真直ぐに進むと小栗勢が敗北したので川を越えて追った。大富山の下で小里出羽守が小栗の長臣を討取ると小栗は引き返したので、肥田村の天福寺の高根で70余りの首実検を行った。その後、逆に御嵩城は囲まれ落城し小栗重則は自害したという。その結果、御嵩城までが武田氏の勢力下に入った。後藤庄助は討死した。

天文23年(1554年)8月 信濃伊那郡下条信氏が父の時氏と共に武田方に臣従した。武田信玄は遠山氏の領地であった恵那郡上村を下条信氏に与えた。

天文24年(1555年)に三河から今川氏の軍勢に明知城を攻められたため、岩村城主の遠山景前が信玄に助けを求めたという説がある。


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