明知城
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岐阜県
別名白鷹城
城郭構造平山城
築城主遠山景重
築城年宝治元年(1247年
主な城主明知遠山氏
廃城年元和元年(1615年)
指定文化財県指定史跡
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度18分18秒 東経137度23分35秒 / 北緯35.30500度 東経137.39306度 / 35.30500; 137.39306 (明知城)座標: 北緯35度18分18秒 東経137度23分35秒 / 北緯35.30500度 東経137.39306度 / 35.30500; 137.39306 (明知城)
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明知城(あけちじょう)は、美濃国明知(岐阜県恵那市明智町)にあった戦国時代日本の城山城)。別名白鷹城(しらたかじょう)。岐阜県指定史跡[1]。なお、美濃国には、可児郡明智荘にも明智城(長山城)が存在していたので、混同への注意が必要である。
概要

明知城は、日本三大山城に数えられる岩村城から南西8キロメートルに位置する遠山十八城のひとつ。標高530メートルの山に築かれた天険の地形を巧みに利用した平山城で、土盛砦として保塁数大小23箇所あり、今でもその様子が原形のまま残っているのが日本でも数少ないとされ、県の指定文化財(史跡)となっている。重要な砦には石垣を積み上げ、中に陣屋として実戦に備えた館5棟があった。

恵那郡明知は、北は岩村・恵那、東は信濃国伊那郡飯田、西は土岐郡、南は三河国賀茂郡足助・額田郡岡崎に街道が通じる、交通の要衝の地である。遠山氏祖の遠山景朝の父親である、源頼朝の重臣の加藤景廉が明知を含む遠山荘の地頭に任ぜられ、それ以降、明知遠山氏累代の土地であった。

戦国時代の後期には、岩村・阿照・明知・串原・苗木・安木と並んで遠山七頭と呼ばれていた。そのうち「岩村遠山氏」と「苗木遠山氏」そしてこの「明知遠山氏」を「遠山三頭」といい、美濃国東濃地方に威を張っていた。

しかし、やがて美濃国東濃地方は争奪戦の地となり、武田信玄の家臣秋山虎繁(信友)、織田信長の嫡男の織田信忠豊臣秀吉の武将の森長可が制圧している。

秀吉の死後に長可の弟の森忠政が川中島に移封となり、替わって田丸直昌が入ったが、関ヶ原の戦いで直昌は大坂城城番となり西軍に取り込まれたため、遠山利景が嫡男の遠山方景と共に奪還した。

なお、明智光秀の生誕の城ともいわれているが、足利尊氏の御家人の土岐氏の末裔とされ、遠山氏の縁戚である可能性は、明治時代の子孫の記録や、両氏の重臣である三宅氏の存在などから考慮はされるものの、生誕地そのものである可能性は低い(江戸時代の初期に著作された書物類から、可児市にある明智長山城である可能性が高いとされる)[2]
歴史・沿革
宝治元年(
1247年) 築城
遠山三郎兵衛景重が築城した。遠山景重の先祖は加藤景廉源頼朝の重臣)が遠山荘の地頭になり、その子岩村城景朝はこの地名をとって遠山と姓を改めた。遠山景重は加藤景廉の孫にあたる。
戦国時代前の状況( - 1570年)
戦国時代には美濃国東濃地方は信濃国三河国との国境界に位置するため、美濃攻略を狙う武田と織田の争奪戦が繰り広げられた。始めは武田信玄に従っていた遠山家だが、明知城主遠山景行織田信長の婚姻政策によって織田勢についた。
元亀元年(1570年) 12月28日 上村合戦で遠山景行戦死
秋山信友は、西に兵を進め、上村(現在の恵那市上矢作町)で明知・苗木・飯羽間・串原・足助の諸将の遠山連合軍と東三河の徳川の援兵合わせて五千と戦い、これを攻略した。この上村合戦において、明知城主遠山景行は5・6騎の兵とともに落ちのびたが自刃した。また、景行の甥で娘婿にあたる小里光次も戦死している。新しく明知城当主になった遠山一行(景行の長男景玄の子)が幼少のため、馬場山田村の飯高山満昌寺に出家していた景玄の弟が還俗し名を遠山利景と改め、一行を補佐し明知遠山氏を守った。
元亀元年(1570年)12月29日 明知城奪還
明知遠山氏は秋山勢に歯が立たず織田信長に救援を求めた。信長は時を移さず明智光廉を急派し、秋山勢を美濃領から駆逐するように命じた。両軍は美濃と三河の国境にある小田子村で対陣、(小田子合戦)三日間に渡る激戦の末、秋山勢は敗れて信濃に撤退した。
元亀3年(1572年)
武田信玄は足利義昭の要請で上洛を決意。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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