明清交替
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明・清間の移行

1644年の決定的な一片石の戦い(英語版)

時1618年-1683年
場所中国本土満洲
結果

清の勝利

の崩壊

張献忠、奢安の乱の鎮圧

の登場


衝突した勢力



明の亡命者

支援者(直接的な武力支援):


オランダ東インド会社
朝鮮王朝(1636年以降)

支援者(直接的な武力支援):
朝鮮王朝


ナラ氏 (満姓)女真


北元(1618年-1635年)(モンゴル)


チャガタイヤルカンド・ハン国(1646年-1650年)(ウイグル)

ハミ郡王家

トルファン汗国(英語版)

軍事支援:
江戸幕府(日本)
ポルトガル王国(李自成)張献忠奢安の乱(英語版)

エヴェンキ-ダウール連合ナナイフルカ
指揮官
ヌルハチ戦傷
ホンタイジ
ドド(英語版)
ドルゴン
順治帝
康熙帝

李永芳(英語版)(1618年に帰順)
耿仲明(1633年に帰順)
孔有徳(1633年に帰順)
尚可喜(帰順)
祖大寿(1642年に帰順)
呉三桂(1644年に帰順)
施琅(帰順)
鄭芝龍(帰順)
孟喬芳(中国語版)(帰順)

崇禎帝
袁崇煥
朱識メ(中国語版)(延昌王子) 
米喇印 
丁国棟 
史可法
鄭成功
李定国(英語版)
孫可望(中国語版)
歐光宸
永暦帝
隆武帝
弘光帝
益王(英語版)
朱以海
朱術桂(英語版)
支援:
リンダン・ハーン
金台石(英語版)
サイド・ババ
トゥルムタイ 
スルタン・ハーン

朱亨嘉(英語版)、靖江王(英語版)紹武帝李自成
馬守応(中国語版)張献忠
李定国(英語版)
孫可望

奢崇明(中国語版)
安邦彦(中国語版)

ボンボゴル(英語版)[1]ソソク[2]
戦力
八旗、緑営など
: 満洲人、モンゴル人、漢人の旗人、漢人の緑営(1644年以後)様々な部隊
: 漢人、回民、モンゴル人順軍:6万人から10万人張献忠軍:10万人彝族軍:30万人
6000人
被害者数
様々な説がある様々な説がある不明不明27500+
不明

明清交替(みんしんこうたい)は、それまで中国大陸を支配していたから、中国東北部に居住していた満洲人愛新覚羅氏が建国したへの移行を指す。この移行は、17世紀初頭から数十年をかけて行われた。清は、明やその遺臣、そして李自成が率いるなどを打ち破り、辛亥革命によって滅びるまで二百数十年間続く帝国を開闢した。明清交替の他に、明清交代、明末清初(みんまつしんしょ)などの呼称もある。
概要
期間

この期間の定義として、以下のように諸説がある[3]
1622年(天啓2年)の徐鴻儒による白蓮教徒の乱から、1681年(康熙20年)の三藩の乱の終息まで[3]

16世紀末から17世紀初頭[4]

清による中国支配の開始(1644年)から鄭氏政権の崩壊(1683年)[5]

明末の状況
明の版図と長城。今日、万里の長城と呼ばれている長城の大半がこの明代の長城である。

明の没落は、複数の要因が組み合わさって起きた。多発する戦役や政治の腐敗、財政の悪化と重税、疫病の流行があった。さらに混乱を助長したのが全国で発生した農民反乱と、相次ぐ柔弱な皇帝である[6][7]。明末にあたる17世紀は小氷期であり、明の没落には気候による旱魃や飢饉も影響したという説もある[8][9]

政治面では、皇帝の政治への無関心と、官僚・宦官の横暴が続いた。万暦帝は浪費にふけり、万暦の三征と呼ばれる3つの戦乱も財政を圧迫した[注釈 1]。次に即位した天啓帝の時代は宦官が権力を握り、政治改革を望む東林党を弾圧した。次の崇禎帝は立て直しをはかったが、すでに農民反乱や女真の侵入が起きており、崇禎帝自身の猜疑心も災いして改革は進まなかった[6][11]

軍事面では、通常の異動サイクルに代わって10年から12年という長期間の指揮権を握る将校に支配されるようになり、中央の軍首脳は地方軍に対する支配力を喪失した。特定任地の財政および軍事を監督する総督軍務(最高司令官)が帝国全土に任命され、彼らは自立していった。特に遼東はモンゴルや朝鮮半島に近いため紛争が絶えず、軍勤務と指揮権が世襲化された[12]。民間から募集した者や非漢人の投降者から家丁と呼ばれる私兵が組織され、正規兵よりも家丁が主戦力となった[13]

経済面では、政府の財政難に加えて、農村と都市の経済格差、富裕層と農民の所得格差が拡大した[注釈 2]。財政対策として監税使が各地で鉱山税や商税を取り立て、「鉱税の禍」と呼ばれる監税使の横暴が民衆の反発を招いて民変と呼ばれる反乱が起きた[注釈 3]。兵士への給料の未払いや、駅卒と呼ばれる運送業者の人員削減によって、盗賊や反乱を起こす者が増加していった。農民反乱軍を率いて順を建国した李自成も、駅卒だったとする説がある[16]
南北の新興勢力

明に対する新興勢力であるヌルハチ鄭芝龍は、当時の東アジアで活発だった貿易で権力を得たという共通点を持っていた。東北部と南海という地域の違いや、薬用人参・貂皮と生糸・銀という商品の違いはありつつも、ともに利益をもとに軍事力をたくわえた[17]

明を征服することになる清は、女真の有力者ヌルハチ(努爾哈赤)によって基礎が築かれた[18]。明との貿易で勢力を伸ばしたヌルハチは、庇護を受けていた明軍の李成梁が罷免されると明との関係が悪化した。ヌルハチは後金を建国したのち、明に対する反乱を開始する。ヌルハチの後継者ホンタイジ(皇太極)は、漢人の官吏から皇帝に即位するよう助言され、1636年に清朝の成立を宣言する。清の勝利は、明の遼東軍事組織の離脱と漢人亡命者の協力によるところが大きく、満洲軍の役割は限定的であった[19][20][21][22]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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