明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧
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明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧(めいじいしんいぜんににほんににゅうこくしたおうべいじんのいちらん)は、明治維新以前に、日本の領土に上陸、滞在した、ウィキペディア内に既に記事が執筆されている(または近日中に執筆される予定の)欧州人および米国人の一覧である。自分の意思に反しての漂流もしくは拿捕による上陸を含む。

外交政治文化科学宗教などの分野においてある程度著名な者に限定する。例えば出島に滞在した一般のオランダ商館員などは除外する。日本の周辺の海域を通過しただけの者は含まない。来日年と国籍、簡潔な紹介も記載する。
15世紀以前

15 - 16世紀。考古・遺伝子学の成果として、
沖縄県南城市玉城富里の納骨堂の石厨子(1706年製)内にあった人骨3体をミトコンドリアDNAの観点から調査した結果、西ヨーロッパ・中央アジア・朝鮮半島の母系の系譜だということが確認された[1]。人骨は男性で推定身長は148センチメートルと低く、中国に渡った集団の子孫が琉球に渡来したと推測されている[1]

16世紀

不明(1543年、ポルトガル) - 種子島へ鉄砲を伝えた。記録に残る日本に入国した最初の欧州人。ポルトガル側の記録では1542年。『鉄炮記』では「牟良叔舎」(フランシスコ)、「喜利志多佗孟太」(キリシタダモッタ)の2人、アントニオ=ガルバンの『諸国新旧発見記』では「アントニオ・ダ・モッタ」、「フランシスコ・ゼイモト」、「アントニオ・ペイショット」の3人とされる。

フェルナン・メンデス・ピント(1544年または45年) - ポルトガルの冒険家。著作『東洋遍歴記』[2]では自身が日本に鉄砲を伝えたとしている。

フランシスコ・ザビエル(1549年、スペイン) - イエズス会宣教師。日本にキリスト教を伝えた。山口、大分などで布教活動を行う。

コスメ・デ・トーレス(1549年、スペイン) - イエズス会宣教師。九州・山口で主に布教。1563年には大村純忠に洗礼、初のキリシタン大名とした。

フアン・フェルナンデス(1549年、スペイン) - イエズス会宣教師。ザビエル、トーレスと共に九州・山口で布教。

ルイス・デ・アルメイダ(1552年、ポルトガル) - 商人として訪日、後にイエズス会員となった。西洋医学を日本に導入、日本初の病院をつくった。

ルイス・フロイス(1563年、ポルトガル) - イエズス会宣教師。織田信長豊臣秀吉らと会見。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史[3]を著した。

ニェッキ・ソルディ・オルガンティノ(1570年、イタリア) - イエズス会宣教師。フロイスとともに京都で布教。京都に「南蛮寺」を完成。長崎で病没。

フランシスコ・カブラル(1570年、ポルトガル) - イエズス会宣教師。日本布教区の責任者であったが、解任された。

ガスパール・コエリョ(1572年、ポルトガル) - イエズス会宣教師。イエズス会日本支部の初代準管区長となった。

ジョアン・ロドリゲス(1577年、ポルトガル) - イエズス会宣教師。商人。通訳。

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1579年、イタリア) - イエズス会東インド管区巡察師。天正遣欧少年使節派遣を推進した。1581年に織田信長に謁見した際、お伴の黒人奴隷が信長の家臣になり弥助という名前を与えられた。1590年二度目の入国。

ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン(1594年、スペイン) - 商人。1598年以後に一時離日するが1607年再来日、少なくとも1619年まで長崎に滞在。著書に『日本王国記』。

ウィリアム・アダムス(三浦按針)(1600年、イギリス) - 商人。訪日した最初のイギリス人。徳川家康に外交顧問として仕える。お雪と結婚、息子のジョゼフと娘のスザンナが生まれている。西欧人としては初の幕府公認の武士となる。

ヤン・ヨーステン(耶楊子)(1600年、オランダ) - ウィリアム・アダムスとともに漂着。東京駅東側一帯の、八重洲の地名の由来となった。

17世紀

ルイス・ソテロ(1603年、スペイン) - フランシスコ会宣教師。慶長遣欧使節団の正使として支倉常長らとローマ教皇パウルス5世に謁見。1622年長崎に密入国し、捕えられ、火刑により殉教。

ヤックス・スペックス(1609年、オランダ) - 初代オランダ商館長。日本人女性との間に娘サラをもうけた。

クリストヴァン・フェレイラ(1609年、ポルトガル) - イエズス会宣教師。拷問により棄教しキリシタン弾圧に協力した。日本人女性と結婚して「沢野忠庵」と名乗り子を持った。遠藤周作の『沈黙』の登場人物のモデルの一人。

ロドリゴ・デ・ビベロ(1609年、スペイン) - フィリピン臨時総督。マニラからアカプルコへの航海中に台風で船が難破し、上総国岩和田村に漂着。徳川家康とも会見した。日本滞在中の記録として『ドン・ロドリゴ日本見聞録』を記した。

セバスティアン・ビスカイノ(1611年、スペイン) - 探検家。上記のロドリゴ総督救助についての答礼使として、ヌエバ・エスパーニャ副王の命で派遣された。徳川家康、徳川秀忠のほか、伊達政宗にも謁見している。

ジョン・セーリス(1613年、イギリス) - ウィリアム・アダムスの助けで来日した英国船の艦長。徳川家康に謁見して日英貿易の交渉をした。

リチャード・コックス(1613年、イギリス) - 初代にして最後のイギリス商館長。

ヘンドリック・ブラウエル(1613年、オランダ) - オランダ商館長。

レオナルド・キャンプス(1616年、オランダ) - オランダ商館長。

フランソワ・カロン(1619年、オランダ) - 商館員として訪日し、オランダ商館長にまで昇進。滞在期間は20年を超える。著作に『日本大王国志[4]。後にはフランス東インド会社の長官となり、日本との交易を試みるが実現しなかった。

コルネリス・ファン・ナイエンローデ(1623年、オランダ) - オランダ商館長。日本人女性との間に娘コルネリアをもうけた。

ピーテル・ファン・サンテン(1632年?、オランダ) - オランダ商館長。

ウィレム・フルステーヘン(1632年、オランダ) - 商館員として訪日し、後にオランダ商館長。

ニコラス・クーケバッケル(1633年、オランダ) - オランダ商館長。


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