明治神宮
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明治神宮

明治神宮 外拝殿
(2019年7月17日撮影)

所在地東京都渋谷区代々木神園町1番1号
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度40分34秒 東経139度41分57秒 / 北緯35.67611度 東経139.69917度 / 35.67611; 139.69917 (明治神宮)座標: 北緯35度40分34秒 東経139度41分57秒 / 北緯35.67611度 東経139.69917度 / 35.67611; 139.69917 (明治神宮)
主祭神明治天皇
昭憲皇太后
社格官幣大社 勅祭社
創建大正9年(1920年
本殿の様式三間社流造
例祭11月3日(明治天皇御誕生日)
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}明治神宮東京都区部の地図を表示明治神宮日本の地図を表示
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明治神宮(めいじしんぐう)は、日本の東京都渋谷区にある神社祭神明治天皇昭憲皇太后で、明治天皇崩御後の1920年(大正9年)11月1日に創建された[1][2]旧社格は官幣大社で、勅祭社
概要


御祭神の明治天皇昭憲皇太后

境内はそのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は全国からの献木が植樹された。

また、本殿を中心に厄除七五三などの祈願を行う神楽殿、「明治時代の宮廷文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する」明治神宮ミュージアム、「御祭神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する」武道場至誠館、神道文化の国際的な発信を行う明治神宮国際神道文化研究所などがある。

新年には毎年のように国内外から観光客が集まり、初詣では例年の参拝者数が全国1位となっている[3]
社名

称号については、天皇を祀ることから「神宮」とされた。検討段階では新たな称号を創設することも議論されたが、実現しなかった[4]

また、社名としては、同じく天皇を祀る神社として「橿原神宮」(神武天皇)や「平安神宮」(桓武天皇孝明天皇)のように、宮城所在地名を冠する例があったことから「東京神宮」とする案も出されたが、元号・時代としての「明治」も加味して「明治神宮」となった[5]
「宮」の表記について

明治神宮が授与する神札は、「宮」の字の「呂」の中間に「ノ」を入れない「?」の字を用いている。神札の書体は明治神宮創建時に当時の造営局副総裁の床次竹二郎が書いたもので、それに「ノ」が入っていなかったため、現在も「ノ」を入れていない。一方、正式な神社名については、大正11年(1922年)の『明治神宮明細帳』で「ノ」が入った「宮」が使われていることから、「ノ」が入る「宮」を使用するのが正式である[6]

かつては「?」と「宮」との区別はなく、たとえば1927年の勅令『明治神宮造営局官制廃止ノ件』の署名原本は、上諭(前文)で「?」と筆記すると同時に、勅令本文で「宮」の活字を用いていた[7]
祭神

明治天皇 - 第122代天皇

昭憲皇太后 - 明治天皇の皇后

創建が内定した当初は明治天皇一柱の予定で、また特に明治維新に功績があった臣下の者を合祀することも検討されていた[8]。また、神社創建前(鎮座地が決定した段階)に崩御した昭憲皇太后も合祀し、合計二柱鎮座となった。
歴史
創建明治天皇伏見桃山陵京都市伏見区明治天皇と昭憲皇太后、明治神宮(1926年頃)

73ヘクタール(約22万)に及ぶ広大な神域は、江戸時代初めには肥後藩主・加藤家の別邸であり、寛永17年(1640年)より彦根藩主・井伊家下屋敷となっていたもので、この土地が1874年明治7年)、井伊家から明治政府に買い上げられて南豊島御料地となっていた[1]

1912年明治45年)に明治天皇が崩御した際、その死に関する法律は整備されておらず、立憲君主制下での天皇の崩御後の細目についてははっきりしていなかった[9]。明治天皇により首都と定められた東京市においては、数年後に迫っていた即位50年の記念行事の各種計画が進んでおり、天皇崩御直後、これらの施設を、明治天皇、あるいは明治という時代を記念するものとして、東京に構えるという構想が続々と唱えられた[10]。この内、東京に天皇陵を構えるという意見に対しては、明治天皇の遺志により京都(伏見桃山陵)に山陵が造営されることとなり決着したが、今度はそれ以外の記念施設の東京への創設を求める運動が起こり、それらの中には「明治天皇を祀る神社」もあった。

百出する意見の多くは、銅像や記念碑、美術館など、明治天皇を「記念」するものであったが、神社の建立は、「記念」を上回る、国民の天皇に対する尊崇の念を加味したものとみなされた。この頃、宗教学の分野で神道宗教との関係性が議論されており、神道における「崇敬」の概念が、国民と天皇との関係とリンクする、とされたのである[注釈 1]

天皇崩御の直後、大正元年8月12日には早くも実業家渋沢栄一東京市長阪谷芳郎といった有力者による有志委員会が組織され、神宮創設の具体案を明記した『覚書』が公表された。骨子は以下のとおりであり、実現した神宮の構成と非常に近いものであった[12]

神宮は内苑と外苑からなる。

内苑は国費により政府が、外苑は献費により奉賛会がそれぞれ造営する。

内苑には代々木御料地、外苑は青山練兵場を最適とする。

外苑には記念宮殿、陳列館、林泉などを建設する。

これらのうち、宗教施設を置かず公園として整備される「外苑」は従来の神社にはないものであった[注釈 2]。これは神社のほかに計画されていた記念施設案を包括するものであり、これによって神社には、これら記念施設の全てを包括する立場が与えられたといえる[13]。外苑の構想は、現存する明治神宮外苑として具現化した。

また、代々木御料地と青山練兵場については元々、当年(1912年)をめどに日本大博覧会が開催予定で、具体的なパビリオン計画も進んでいたが財政的な事情で中止になった経緯があり、これが阪谷らの念頭にあったため両地を用いた神宮建設というアイデアが生まれた可能性もある。

一方で、これらの『覚書』と並行して、関東一円の各自治体から神社創設を求める請願が多数寄せられ、東は国見山から西は富士山まで、最終的には20以上に上った。これらは、以前に天皇の行幸があったという「由緒」や、土地が清浄で神社創建に適しているという「風致」を推薦の理由として挙げている。また、明治天皇を祀る神社を一か所ではなく複数個所創設してもいいのではないか、とされたが、慣例として天皇を祀る官国幣社は一祭神について内地では一社に限定していたため[注釈 3]、この案は採用されなかった[15]。また、東京以外の各地の誘致はそれぞれの地元自治体(拡大して県単体)でのレベルにとどまっており、「首都」という大きなアドバンテージがあった東京府内への創設に比べると、規模で劣勢であった[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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