明治神宮外苑
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「神宮外苑」はここに転送されてます。その他の用法については「それぞれの神宮の記事」をご覧ください。
明治神宮外苑近辺の航空写真。1989年度撮影。案内図は、画像:Jingu gaien air2.jpg拡大
Clip神宮外苑近辺の航空写真(1948年3月29日)

明治神宮外苑(めいじじんぐうがいえん)は、1926年に完成した東京都新宿区霞ヶ丘町港区北青山にまたがる[1]、スポーツ・文化施設や緑地公園などからなる一帯[2][3]明治神宮が外苑のうち66.2%を保有し、管理している[3][4]。通常は略して神宮外苑と呼ばれることが多く[1]、さらに「外苑」と略されることもある(外苑前駅など)。

戦後の1945年9月18日からGHQ接収されたものの、1952年3月31日に返還された[5]聖徳記念絵画館明治神宮野球場明治神宮外苑軟式グラウンド秩父宮ラグビー場のほか、イチョウ並木など多くの樹木がある[3]。2030年代にかけて再開発が計画されている[3]後述)。
概要

明治天皇昭憲皇太后の遺徳を永く後世に伝えるべく国家事業として行われ、民間有志も参加して造成され、明治神宮の外苑として1926年に奉献された[6]。内苑が日本風であるのに対して、外苑は西洋風であるのが特徴。内苑と外苑は三列の銀杏並木や乗馬道を含む内外苑連絡道路によって結ばれていたが、乗馬道や銀杏並木の一部分のあった敷地を利用して首都高速4号線が建設されている。青山練兵場跡地を利用した広大な敷地の中に聖徳記念絵画館や明治神宮野球場(神宮球場)などが設けられている。全体計画は当時の官庁技師折下吉延氏により当時の都市美運動(City Beautiful) のデザイン思想を踏まえて設計された。多くの樹木は全国からの献木や献金により、かつ国民の勤労奉仕によって植えられたものである。なお国立霞ヶ丘競技場は、第二次世界大戦前は外苑競技場として外苑の施設であったが、1956年文部省に移管され、現在は神宮外苑に含まれない。

警視庁機動隊観閲式[7]神宮外苑花火大会といった行事の会場に使われるほか、ビアガーデンも開催される[8]
歴史機上から見た明治神宮外苑全景(1936年)

1912年(明治45年)の明治天皇の死後、その陵墓が内定通り伏見桃山に造営される(伏見桃山陵)こととなったため、東京府内にも明治天皇を記念する施設を建設する意見が相次いで出されたことを受け、国家事業として国有地の青山練兵場跡地を明治神宮の「外苑」という形で公園として整備、各種施設を置く形をとった[9]。青山練兵場は、明治天皇の大喪儀に際して葬場殿の儀が行われ、棺が安置された場所であった。


着工された1918年(大正7年)に策定された当初の開発計画では聖徳記念絵画館、葬場殿址記念物、(大日本帝国)憲法記念館、陸上競技場の4施設のみが計画されていた。その後の日本国内のスポーツ熱の高まりを背景に1924年に計画が変更され、野球場、水泳場相撲場も設けられることになった[10]。明治神宮造営局主任技師の折下吉延により銀杏並木が設計された。

造営計画では、神社が置かれる内苑は国費で賄われるが、外苑については奉賛会が全国からの寄付金を取りまとめる形で資金を捻出した。これは、神宮創建のきっかけが「明治天皇を記念する施設」を求める国民の声であったことから、明治神宮は「国民の神社」であり、記念施設は国民の寄付によって賄われるべきである、という考えによるものである。寄付額(495万円)は予算をもとに全道府県、外地、在外邦人などにそれぞれ割り当てられたが、東京の200万円を筆頭に、全ての自治体が目標額を達成した[11]

さらに、1919年(大正8年)に作業にあたる工夫の賃金が上昇して予算が逼迫すると、全国各地の青年団が勤労奉仕として造営に加わった。この時点で内苑はほぼ完成していたため主な奉仕の場所は外苑であった。これがのちに、日本青年館の設立につながってゆく[12]。造営作業は、関東大震災による中断を経つつ1926年(大正15年)に完了、神宮への奉献式が行われた。
GHQによる接収後

第二次世界大戦後、神宮外苑は1945年9月18日から連合国の進駐軍連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) )に接収された。1952年3月31日に返還された。明治神宮球場は「ステートサイド・パーク 」と改名され、進駐軍専用の野球場として使用されていた[5]。「明治神宮外苑競技場」も接収され「ナイルキニック・スタジアム」(ナイル・キニックは米国軍人名)と改名されていた[10]

日本側へ返還される前年の1951年に東京都は風致地区に指定した理由について、大澤昭彦准教授は緑地を保全するため先手を打ったからと述べている[13]。銀杏並木の道路用地は東京都に移管され、競技場はアジアオリンピック開催に備えて国立競技場として文部科学省に移管・改築された。これを除けば、明治神宮外苑の全体は明治神宮が管理しており、広く国民に開放され、都心における大規模で貴重な緑とオープン・スペースになっている。特に、イチョウ並木は東京を代表する並木道として知られている。
再開発計画

外苑にある神宮球場、軟式野球場、テニス場など施設群の多くも全て明治神宮の管轄である。明治神宮の賽銭玉串料などの「神社としての収益」は全体の約12%だけである。その他は結婚式場利用など売上は毎年15億円程度、外苑にある各スポーツ施設利用の売上は毎年60億円程度など「神社事業以外の収益」から得ている。明治神宮は、これらの売上から費用を除いた純利益によって、内苑や外苑の森林管理維持費を捻出している。そして、神宮球場や秩父宮ラグビー場は耐震問題などで、明治神宮は建替や外苑の再開発を望んでいるものの、一年の純利益ではなく売上が85億円程度の宗教法人明治神宮には、再開発に必要な費用である総工費3000億円以上もの資金は負担出来ないような財政状況であるが、宗教法人には公金投入は禁止されていることが再開発計画の背景にある[4]

そこで土地所有者である明治神宮は、隣接する伊藤忠商事東京本社ビル日本オラクル本社のオラクル青山センタービルも含む)建て替えと三井不動産 [注 1] の再開発事業と絡めることで資金を捻出する現行案を思いつき、民間企業の資金で再開発をすることにした[4]。明治神宮は、三井不動産や伊藤忠商事、日本スポーツ振興センターが、老朽化したスポーツ施設のドーム型スタジアムへの建て替え、オフィスビルやホテルとして利用する高層ビル3棟の建設、災害に備えた拠点を兼ねる公園整備などを計画している[3][4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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