明治法律学校
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明治大学開学記念碑(有楽町明治法律学校の開校地となった島原藩上屋敷跡(赤枠内)

明治法律学校(めいじほうりつがっこう)は、1881年明治14年)1月、岸本辰雄らによって東京府に設立された私立法律学校である。この項目では後身たる専門学校令準拠の明治大学についても扱う。
概説

現在の明治大学の前身校である。司法省法学校出身者によって設立され、フランス法学を講じる仏法系学校であり、いわゆる「五大法律学校」の一つにかぞえられた。また自由民権運動と強い関わりを持ちつつ発展し、法典論争においては「実施断行論」の立場をとった。
歴史

明治法律学校創立者

岸本辰雄

宮城浩蔵

矢代操

仏法系学校として設立.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに明治法律学校設立ノ趣旨の原文があります。

大学南校を経て司法省明法寮でともに学び、司法省法学校の第一期卒業生となった岸本辰雄・宮城浩蔵矢代操の3名が中心となり、1880年(明治13年)12月、「法理ヲ講究シテ其真諦ヲ拡張」することを標榜して創立、翌1881年(明治14年)1月に開校された。開校に際しては旧鳥取藩主池田輝知および旧島原藩主松平忠和の財政的援助を受けた。

開校の直接のきっかけとなったのは講法学舎(北畠道龍らがおこした法律学校)で起きた集団退学騒動である。フランス留学から帰国した岸本と宮城は公務に就くかたわら矢代が幹事を務める講法学舎にも出講していたが、1880年(明治13年)11月に同校で内紛が起こり、集団退学した学生十数名が岸本らに新しい法律学校の開設を求めたのである[1][2]
1882年1月における明治法律学校講師[3]


アッペール(通訳宇川盛三郎、経済学)

井上正一(行政法)

岸本辰雄(商法)

宮城浩蔵(日本治罪法)

西園寺公望(討論会)

矢代操(仏国民法名代契約)

一瀬勇三郎(仏国民法賃貸契約)

杉村虎一(擬律擬判)

東京法学校との抗争自由民権運動の演説会

したがって本校はもともと、政府公認の準官学的な法律学校として出発したはずであったが、当時高まりを見せていた自由民権運動の影響を受け急速に野党色を強めていき、特に自由党を支える人材を生むことになった。校舎となった旧松平忠和邸の三楽舎では、フランス革命の影響を受け権利自由の拡張を主張する学生たちにより演説会が盛んに行われ、政府からは自由民権の牙城とみなされるようになった。この点、本校に対抗して設立された同じ仏法系の東京法学校が、司法省の強い影響下にあったのとは対照的であった。両校は学生の獲得をめぐって授業料値下げなどの競争・対立が繰り広げられ、ついには共倒れ寸前に至ったため、明治10年代末にようやく和議が成立した。

その後帝国大学(現東京大学)を中心としたイギリス法学の台頭を背景に、1888年(明治21年)末には東京法学校・東京仏学校との間で、これに対抗して同じ仏法系学校として合併しようとする構想が起こったが、野党色の強い本校は結局これに参加しなかった(東京法学校・仏学校は合同して和仏法律学校となり、法政大学の前身となった)。

しかし1889年民法商法の両法典の実施の可否をめぐる法典論争が起こると、本校は仏法学派として和仏法律学校と共同戦線を組み、英法系(帝国大学・東京法学院など)の実施延期論を批判し、法典実施断行運動を展開した。しかし最終的に仏法派は敗れ、明治法律学校の校運は一時衰退した。
学校組織の整備と明治大学への移行図書閲覧室(明治末期)

組織面では、1886年(明治19年)には法律学部・行政学部の2学部を設置し、1887年(明治20年)には名誉校員制を設け(大木喬任鶴田皓箕作麟祥・名村泰蔵・ボアソナードが就任)、1888年(明治21年)の校長・教頭制度制定で岸本辰雄が初代校長に就任するなど整備が進み、1903年(明治36年)3月になって私立「明治大学」への改称が認可され、翌年の学則改正により法学部・商学部・政学部・文学部が設置された。

しかしこの時点の明治大学は制度上の大学(旧制大学)ではなく、専門学校令に基づく旧制専門学校となったに過ぎなかった。しかも文学部は入学者があまりにも少ないために1908年(明治41年)に学生募集を停止せざるを得なくなるなど、総合大学への志向の努力はあまりにも不十分なものであった。

1911年(明治44年)の創立30周年記念式は西園寺公望首相らを迎えて華々しく挙行されたが、翌年春には記念館が焼失し、岸本辰雄校長が急死するなどの悲運が重なった。
旧制大学への昇格とその後「明治大学大学院政治経済学研究科・政治経済学部」も参照学長退陣を訴える明大生
植原・笹川事件

1918年(大正7年)12月に大学令が公布され私立大学設立の道が開かれると、明治大学でも大学昇格に向けての運動が本格化し、学生や校友らによる募金活動が展開されたが、目標額150万円に対して1920年(大正9年)2月21日時点での応募額は約48万6672円にとどまり、しかも1921年(大正11年)3月になっても実際の払込額は約8万6434円に過ぎなかった[4]。法・商・政治経済の3学部を設置するという目標は下方修正され、1920年(大正9年)4月16日に設立認可されたのは法学部商学部のみであり、政経は法・商両学部に分属される結果となった。

明治大学は大学令による昇格を果たしたものの、新校舎建設や専任教授確保などの努力は道半ばであり、1920年(大正9年)12月には狭い教室での合併授業に不満を抱いた法学部政治学科の学生らが中心となって学長排斥運動を起こす(植原・笹川事件)。翌年5月に木下友三郎学長は学内混乱の責任をとって辞職し、後任の富谷ヌ太郎は今後の改革の努力を誓った。しかし、1923年(大正12年)の関東大震災により明治大学の校舎は全て灰燼に帰した。

1921年(大正11年)以降は弁護士試験の合格者数で中央大学に大差をつけられるなど[5]、大学昇格後も明治大学は苦難の道を歩み続けることとなる。
年表詳細は「明治大学#年表」を参照
基礎データ
象徴


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