四十三山
通称見晴台から望む洞爺湖温泉街。
奥に見える山が西丸山。その背後が四十三山
標高252 m
所在地 日本
北海道有珠郡洞爺湖町・壮瞥町
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯42度33分38秒 東経140度50分09秒 / 北緯42.56056度 東経140.83583度 / 42.56056; 140.83583
四十三山(よそみやま)、あるいは明治新山(めいじしんざん)は、日本の北海道有珠郡洞爺湖町と壮瞥町の境界、洞爺湖の南岸に位置する標高252mの火山である。 有珠山の1910年(明治43年)の噴火活動によって形成された側火山である。デイサイト質の粘性の高い溶岩が地下から推上し、土壌を持ち上げて作られた潜在溶岩円頂丘。形成当時は各所から盛んな噴気が見られたが、21世紀初頭の現在は全山を落葉広葉樹林に覆われ、一部で弱い噴気活動が見られる程度である。
概要
@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}噴火以前の洞爺湖周辺[疑問点 – ノート
1910年(明治43年)は、ハレー彗星が地球に接近していた時期にあたる。「彗星によって地球は空気を奪われ、全人類は滅亡する」とのデマが世界的に流布し、日露戦争の勝利に浮かれる人心に冷や水を浴びせていた。一方、北海道洞爺湖周辺では明治20年代より開始された開拓事業が軌道に乗り、火山性の肥沃な土壌と温暖な気候を生かして小麦畑やリンゴ園が次々と開かれていた[要検証 – ノート][1][出典無効]。 当時、現在の洞爺湖温泉街に当たる有珠山北麓、洞爺湖南岸はアイヌ語で「廃村」を意味するトコタンと呼ばれる辺鄙な寒村だった。そんな折、トコタンに秋山宥猛(俗名:秋山甚平)という僧が現れる[2]。 1873年(明治6年)に徳島県に生まれた秋山(宥猛を名乗るのは、大正3年以降)は若き日に神陰流剣術や玉心流柔術など各種の武道を極め、日清戦争直後の征台の役にも従軍した[2]。 兵役を終えた彼は北海道に渡り、仁木町で開墾に従事したり、虻田町で蓄音機を有料で視聴させるなどして生計を立てていたが、一旦内地に戻り、讃岐の金刀比羅宮で出家する。元来、金刀比羅宮は神仏習合の金毘羅大権現として、別当寺の松尾寺金光院を有していたが、明治初期の廃仏毀釈や神仏分離令の影響で歴代の仏像、仏具の大半を破却に追い込まれていた。秋山の修行時代は、まさに松尾寺が存亡の危機を迎えていた時期に当たる[3][note 1]。 同じころ、洞爺湖南西岸・月浦集落に農業や運送業を営む有力者・篠原又兵衛がいた。香川県生まれの篠原は幼いころより信仰心篤く、明治30年頃に故郷より金刀比羅宮の分霊をいただき、自宅の裏山に祀っていた[4]。 1908年(明治41年)、松尾寺での修行を終えた秋山は北海道に再度渡っていたが、洞爺湖周辺の風光明媚な光景に引かれ、この地に金毘羅宮建立の夢を思い描く。秋山は「本山から、松尾寺再興の夢を託された」との触れ込みで篠原に接近し、協議を重ねた末の同年10月、金毘羅寺の仮本堂を竣工させる。もとより洞爺湖周辺の開拓民は四国出身者が多かったため、「ふるさとの神様」を迎えた地元住民は狂喜し、上棟式には虻田、壮瞥、留寿都などから千数百人の善男善女が詰めかけたという。虻田町でも10万坪の土地を売却して事業に援助。官民一体での金毘羅寺整備につられ、周辺には小規模ながら門前町が整い始めた。そして明治43年3月、壮麗な本堂が竣工した。 まさに噴火の4か月まえのことである。有珠山明治活動で最初の噴火を起こす本堂の裏山は、「金毘羅山[note 2]」と称されていた[5]。 明治43年7月19日午前11時43分、有珠山周辺で最初の有感地震が発生。22日午前6時から地震活動は本格的となり、23日に110回、24日には強震62回を含む313回、25日は強震31回を含む162回の地震を記録。度重なる地震を受けた室蘭警察署長の飯田誠一は、有珠山周辺の全住民に対し「住民1万5千人全員、有珠山より3里(12キロ)以遠に退避すべし」との避難命令を出す[note 3]。 後に昭和新山の観察記録で名を成す三松正夫は、当時は壮瞥郵便局の局長代理を務めていた。通信確保のため退避の許可が下りず、地面に畳を敷いて徹夜で勤務していた彼は空に尾を引くハレー彗星を眺め「やはりこの彗星は不吉なのだ」と思ったという[6]。 7月25日午後10時、金毘羅山から最初の噴火[note 4]。当時、洞爺湖対岸の洞爺村で小学校校長を勤めていた秋元長次郎は、噴火のありさまを次のように記録している[7]。十時半ごろ揺れてから暫くたって地下幾百尺か幾千尺か、南方山麓に当って万雷の轟といわんか、幾千万雷のトドロキといわんか、響音を発した。ゆられゆられてのみおった惰心にはこの上ない爽快な豪壮な感覚をしたのである。鳴り出したと思ううちに樹幹に閃光電光ひらめき渡ったのは一再に止まらなかった。すわ爆発と思う間もあらせず、黒煙数百尺の上天に昇騰した。折しも東風吹き渡って黒煙はポロモイ湖畔(月浦小学校付近の湖畔)より成香方面に持ち去ったけれども轟々たる響く音は止まない。一面土砂を噴出すれば、幾千尺の地下よりとどろき又噴出する。この度に電火が黒煙の中にかすかに見える。トドロキ鳴る爆発するという順序でこの夜は第一回の噴火を床丹(トコタン、現在の洞爺湖温泉街)市街地後方の山腹よりしたのである。万有の神も、ここに初度の怒心をコンピラゴンゲン堂の後に発し了ったのである。 翌26日には金毘羅山西方の奥と空滝沢で噴火。泥流が発生し、空滝沢を流れ下った。27日の午前2時には金毘羅山からトコタン集落を挟んで東に600m離れた西丸山から噴火し、直径90mの火口を形成。火口から流れ出した泥流は幅200mに及び、時速20マイル(約32キロ)の速さで現在のホテル万世閣の付近を流れ下り、洞爺湖に流れ込んだ[8]。 27日から8月4日までの間は噴火の最盛期で、一日平均で4、5回の噴火が頻発。7月31日午前9時の噴火では、口径211m、深さ41mと明治噴火中最大の火口を形成した。この火口は現存し、当時、近隣に住んでいた阿野源太にちなんで「源太穴」(げんたあな)と呼ばれている[9]。8月3日には、室蘭から噴火を見物に来ていた矢島某が非常線を突破した結果、100度近い温度の泥流に巻き込まれて死亡した。明治噴火中、唯一の死者である[1]。
金毘羅寺
噴火活動の推移
前兆地震
噴火
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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