明治政府
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明治天皇東京行幸
聖徳記念絵画館壁画「東京御着輦」)

明治維新(めいじいしん、英語: Meiji Restoration、Meiji Revolution[1][2]、Meiji Reform[3])とは、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の日本国内で行われた幕藩体制を打倒して天皇を頂点とした中央集権統一国家を形成、幕府封建社会から資本主義社会へ移行した近代化改革を指す[4][5]政治や中央官制法制宮廷軍事身分制地方行政金融流通産業経済文化教育外交宗教思想政策の改革近代化が進行した。

同時代には御一新(ごいっしん)と呼ばれた[5]。維新革命(いしんかくめい)[2][6]、明治革命(めいじかくめい)とも表現する[1][7][8]
名称:復古・維新・一新・革命
典拠「維新」も参照

維新詩経大雅・文王の「周雖旧邦、其命維新(は旧邦といえども、その命は維(これ)新(あらた)なり)」の成句から採られたが、発音の類似から御一新・御維ヰッ新(ごいっしん)ともいわれた[2][9]

.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}周󠄀雖舊邦󠄁、其命維新(周󠄀は舊邦󠄁と.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}雖(いえど)も、其(そ)の命(めい)は維(これ)新(あらた)なり)(は旧い国であるが、その天命は新しいものである) ? 詩経大雅・文王[2]
幕末変革期から明治初期における「復古」「維新」「一新」の用例

「維新」の用例は古代以来多数あるが、幕末変革期においては、水戸学の思想家藤田東湖の日記『庚寅日録』天保元年(1830年)4月21日条に「中興維新」、4月25日条に「去年以来国事維新百度将復」とある。また、嘉永3年(1850年)6月19日の藤田東湖宛横井小楠書簡に「近年来尊藩御維新之御政事赫赫と天下に響聞仕」とあり[10]、幕府側の公文書でも、嘉永6年(1853年)10月15日ロシア宰相宛老中奉書「君主新嗣位、百度維新、如斯等重大事項」とある[11][12]

長州藩吉田稔麿穢多非人・屠勇などの被差別部落民の兵士取り立てを献策し、元治元年(1864年)に「一新組」が、慶応2年(1866年)に「維新団」が結成された[13][14]

慶応2年(1866年)(または慶応3年)、国学者の玉松操による岩倉具視への返答に「維新」が出てくる。『岩倉公実記』によれば、岩倉具視に意見を求められた玉松操は次のように回答した。王政復古は務めて度量を宏くし規模を大にせんことを要󠄁す。故に官職制度を建󠄁定せんには、當に神󠄀武帝?の肇󠄁基に原づき、寰宇の統一を圖り、萬機の維新に從ふを以て規準と爲すべし ? 慶応2年(1866年)(または慶応3年)、玉松操発言[2]

玉松においては、旧江戸幕府政権からの権力の移譲は、「征夷大将軍」という官位を「禁裡様」(天皇)へ返上するという形で行われたもので、これは易姓革命でいう王朝交代ではなかったため、「革命」でなく「維新」の表現が選ばれた[2]。明治政府もこれを踏襲した[2]

慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令において「民ハ王者之大寶百事御一新」と表記された[15]

尾佐竹猛によれば、新政府は王政復古の大号令においては「王政復古、国威挽回」を述べ、根本的大改造という意味で「百事御一新」と宣伝したが、この「御一新」が「維新」という語になり、初めは「王政維新」と言っていた[16]。「明治維新」の語が現れたのは1890年に憲法が公布される数年前のことと見られ[17]、「王政維新」の語は戦後も使用されている。

革命初期の公文書には政体復古・天下一新・朝政一新という表記がなされた。『太政官日誌』は慶応4年2月14日(1868年3月7日)から記録されているが、同日東久世通禧は各国公使に「政体復古」を報告している[18]。二月十四日 午の半󠄁刻より申の刻までに 大坂西本願寺に於󠄁て

醍醐大納󠄁言殿 東久世前少將殿 宇和嶋少將殿 各國公󠄁使󠄁と應接の始末 左の如し但 外國事務係 及󠄁び 諸󠄀藩家老列座

東久世殿發話 我日本 政體復古帝?自ら政權を握し 外國の交󠄁際も 一切朝廷󠄁にて曳請󠄁 裁判󠄁致可 …  ? 『太政官日誌』第一

慶應4年2月28日の「幕府御親征の詔」では「天下一新」とある[19]。慶應4年3月14日(1868年4月6日)の億兆安撫国威宣揚の御宸翰では「朝政一新」とある。旧暦9月8日(10月23日)に改元が行われ、明治元年12月23日(1869年2月4日)の東久世中将からイギリス公使ハリー・パークスに宛てた公文書綴では「朝政一新」とある[20]

明治2年(1869年)正月には、木戸孝允大村益次郎宛書簡で「大政一新」と書き、岩倉具視は「大政維新」と書いた[12][21]

公文書における「維新」の用例としては、明治3年1月3日の宣布大教の詔に「今や天運循環し、百度維新(これあらた)なり、宜しく治教を明らかにし、以て惟神(かむながら)の道を宣揚すべきなり」とある[22]

明治5年(1872年)9月刊行の沖志楼主人『維新御布告往来 : 童蒙必読』には「皇政復古、綱紀御維新(ゴセイジムカシカヘリ ゴキソクアラタニナリ)」とある。
英語での翻訳:restoration と revolution

英語表記は Meiji restoration [23]が多く、「明治の(王政)復古」の意味になる。他に Meiji Ishin[24]、Meiji restoration and revolution[3]、Meiji Revolution(明治革命)[25][1]、Meiji Renovation[26]などが見られる。

維新は英語で王政復古を意味する Restoration と表記されることが多いが、これは慶應3年12月9日(1868年1月3日)に岩倉具視らが上程した大令(いわゆる王政復古の大号令)の中の王政復古の英語訳であるとされる[2]。先帝(孝明天皇)頻年被惱宸襟(しんきん)候御次第、衆庶之知る所に候。依之叡慮を決せられ、王政復古、国威挽回ノ御基(もとい)立てさせられ候間、自今、摂関幕府等廢?し… ? 大令(王政復古の大号令)[2][27]、慶應3年12月9日(1868年1月3日)

英国外交官フランシス・O・アダムスの『日本史』(1874-75)ではこの大令を「a basis should be formed for a return to the ancient form of government by the Sovereign,and for the restoration of the national dignity」と説明された[28]。この場合、restoration は「王政復古」ではなく、「国威挽回」の訳語として用いられたが、日本政治思想史研究者の苅部直は、日本の開国後出版された西欧人による初めての日本紹介であるアダムスの『日本史』から、慶応三年の改革を restoration と呼ぶ用法が定着していったのだろうと指摘する[2]

他方、ウィリアム・グリフィスの The Mikado's Empire (『ミカドの帝国』、1876年)では、将軍政権の崩壊とミカド(天皇)の最高権力への復帰(restoration)が目撃されたとし、最近の日本では、対外政策の転換、社会改革、西洋文明の受容の三重の政治革命 (a three-fold political revolution) が進行していたと認識していた[2][29]。苅部によれば、幕末から明治にかけての体制転換は、徳川公方から京都の天皇への単なる政権交代というだけでなく、公儀または幕府が大名と朝廷を統制するそれまでの国家全体の体制を改めることであり、様々な制度改革を通じて、身分に基づく支配などが廃止され、西洋文明への受容へと大きく舵が切られたような、社会の急激な変化であり、また、当時の日本国内ではこのような世の中を根本から立て直そうとする動きは「御一新」として歓迎されたことなどからも、このような体制転換にふさわしい英語は revolution であり、これは同時代の日本人が抱いた実感でもあったという[2]。また、明治政府が「維新」でなく「革命」と表現していたら、「明治革命」と言った名称も定着していた可能性もあったという[2]

なお、徳富蘇峰竹越與三郎[2]や、北一輝らは[6]、「維新革命」という呼称を用いた。

中村政則は、明治維新は復古(Restoration)、改革(Reform)、革命の三つの側面を持ち、どの側面を強調するかで評価が異なってくると1986年に指摘した[30]

21世紀に入ると「明治革命」を使用する研究者が多くなり、日本政治史研究の坂野潤治[7]日本近代史研究の三谷博[1]、日本政治思想史研究の渡辺浩[8]、歴史学者マリウス・バーサス・ジャンセン[31]アンドルー・ゴードン[32][33]らは「明治革命・Meiji Revolution」という呼称を用いる。

なお、三谷博は、Restorationを訳語に使うと、天皇の国家の頂点への復帰だけに注意を集め、維新が世襲身分制のほとんどを廃棄した大規模な革命であった事実をおおいかくしてしまうので、Revolutionでは誤解もあるのなら、regeneration(再生、改革、刷新などの意味)という訳語を提案した[34][* 1]
改革の時期

維新の時期については諸説ある。明治維新の始期として、天保年間(1831 - 1845年)に置く考えがある[5]天保年間には、天保の大飢饉(天保4 - 10年、1833 - 1839年)によって100万人以上が犠牲となり、天保騒動などの百姓一揆や、大塩平八郎の乱(1837年)が発生した[5][36]

また鎖国を批判した渡辺崋山高野長英を弾圧する蛮社の獄があり、天保の改革でも飢饉対策の成果はなかった[5][36]。天保13年(1842年)にはアヘン戦争が敗れ、イギリス大英帝国)の強さを知った幕府は異国船打払令を廃止し、遭難船を救済する薪水給与令を定めた[36]

始期として、黒船来航嘉永6年、1853年)または不平等条約であった安政通商条約の締結(1858年)に置く見方もある[5]


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