明治天皇と日露大戦争
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明治天皇と日露大戦争
嵐寛寿郎明治天皇
監督渡辺邦男
脚本館岡謙之助
原案大蔵貢
原作渡辺邦男
製作総指揮大蔵貢
出演者嵐寛寿郎
阿部九洲男
高田稔
音楽鈴木静一
撮影渡辺孝 (シネマスコープ版)
西本正 (スタンダード版)
製作会社新東宝
配給 新東宝
MoMA
公開 1957年4月29日
1958年1月23日
上映時間113分
製作国 日本
言語日本語
製作費2億円
興行収入8億円(封切り)
配給収入5億4291万円[1]
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『明治天皇と日露大戦争』(めいじてんのう と にちろだいせんそう)は、1957年(昭和32年)公開、渡辺邦男監督、新東宝製作による戦争映画である。
概要

ロシア南下政策に戦々恐々とする人々、武力侵攻を主張する七博士御前会議、国交断絶……と、日露戦争開戦までの経緯が描かれ、仁川上陸旅順港封鎖黄海大海戦203高地奉天入城日本海海戦、大勝利の提灯行列までを、明治天皇御製を織り込みながらパノラミックに描いた歴史ドラマ。
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大蔵貢が社長に就任し、渡辺邦男監督の手腕の下、態勢立て直しを図る新東宝だったが、ヒット作が続かなかった。そこで大蔵社長は、それまでの日本映画では天皇の姿を出すこと自体がタブーだった中、「ここ一番の大勝負」と、天皇をネタにすることを思いついた。1957年(昭和32年)正月、前年に宝塚映画をやめ新東宝に入社した嵐寛寿郎(以後愛称「アラカン」で表記する) の京都の自宅に、「5月のゴールデン・ウィークに超大作を出すので主役を演ってほしい、ついては社長直々に相談をしたい」と大蔵から使いが来た。アラカンはずいぶん先の話にしては性急なと、内容について聞いたが「日露戦争の話としか聞いてません、詳細は社長と渡辺監督から申し上げます、ともかくお出で下さい」と切り口上で返すだけ。アラカンは「正月早々から何とけたたましい、乃木将軍でも演れとゆうことかいな」と思ったという。

翌日、東京本社に出向いたアラカンに、大蔵は「明治天皇を演ってほしい」と切り出した。アラカンは吃驚仰天し、「そらあきまへん、不敬罪ですわ、右翼が殺しに来よります」と断ったが、渡辺監督は涼しい顔で「大丈夫や、ボクかて右翼やないか」と返し、大蔵は「この作品に社運をかける、総天然色、大シネスコ、製作費2億円」と熱弁を振るい、「寛寿郎くん、大日本最初の天皇役者として歴史に残りたいと思わんかねキミイ」と説得にかかった。元活動弁士仕込みの説得力もあり、アラカンは「シネマ・スコープ」に心が動き[注釈 1]、「考えさせてもらいます」と答えた。

ところが翌日の新聞には、でかでかと「『明治天皇と日露大戦争』、主役を引き受けた嵐寛寿郎、恐く感激云々」と宣伝部が談話をでっちあげて発表してしまっていた。こうしてアラカンは、この大役を引き受けざるを得なくなった[2]
日本初の「天皇役者」

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アラカンは、前代未聞の明治天皇役をどう演じるか悩んだ。その姿を見た大蔵は一計を案じ、アラカンが撮影所に来る時にはハイヤーで送迎し、ハイヤーが新東宝撮影所に到着すると大蔵以下新東宝の重役、スタッフが勢揃いして出迎えし「陛下のおなり」と呼び合うことを日課とした。アラカンは後年、この日課により「自分が本当に天皇陛下になった気分がした」と述懐している[3]

アラカンは日本初のこの大役に、「雲の上のお方で人間臭い演技でけしません、ニッコリ笑うてもあかん、とゆうて能面のように無表情ではアホにしか見えん」と四苦八苦する。「もし昭和天皇をそっくり真似したらそれこそ不敬罪、喜劇になってしまいよる、お手本おまへん」、「象徴的にイメエジつくらんならん、これが天皇陛下やと見る人に納得させな主役として落第や、ほんまに苦労しました、この役づくりは」と振り返っている。

撮影に入ると、宮家の人間や元・海軍中将といった人たちが大勢来て、顧問料をもらっていろいろと指導してくれた。が、実際は誰も明治天皇をそばで見た者などおらず、その通りにやっても芝居にならないため、アラカンはハイハイと聞き流したという。結局、「おのれの心にあるイメエジで、恐れ多いお方や、大偉人やと思うままに演じればよい」と思い当たったが、そこまでが苦労だったという。宮内庁からは「皇室関係を描くときには宮内庁の許可を得よ」とクレームが来たが、このときも天皇になったつもりで「さようか、よきにはからえ、まことに気分がよろしい」という調子だった。

総天然色ということで照明の量が通常の4倍となり、天皇役だけに直立不動を強いられた。ほかの俳優が撮影の合間に外へ風に当たりに出ても、アラカンだけは椅子に身動き一つせずに腰かけて待っているという状態で、おかげであせもだらけになったという[2]
日本初のシネマスコープ超大作映画

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こうして1956年(昭和31年)12月、「日本初のシネマスコープ大型映画」として製作を開始した本作は、翌1957年、当時の天皇誕生日4月29日に、「総天然色・シネパノラミック方式“大シネスコ”」、「全国民が一人残らず見る映画!」と銘打って公開された。

大蔵の意気込みに反し、日本初のシネマスコープ映画としては東映が『鳳城の花嫁』をシネマスコープで急遽製作、4月2日に公開したため、記録は奪われた。本作の製作当初の広告にあった「日本最初の大シネスコ遂に出現!」の一文は、公開時には使えなかった。

戦艦三笠クニャージ・スヴォーロフのミニチュアには、主砲が自動射撃出来る精巧なものが使用された[4]。作家の中野重治は、自宅の桜の枝がスタッフによって伐られて、この映画の背景に使われたと記録している[5]


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