明治大学硬式野球部明治大学のユニフォーム(画面左側)
加盟団体東京六大学野球連盟
本拠地東京都府中市若松町5-6-1
明治大学内海・島岡ボールパーク
創部1910年
監督田中武宏
公式サイト ⇒明治大学硬式野球部
リーグ戦成績
リーグ成績優勝43回(2023年時点)
全日本大学野球選手権大会
出場回数20回
最高成績優勝6回
明治神宮野球大会
出場回数14回
最高成績優勝7回
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明治大学硬式野球部(めいじだいがくこうしきやきゅうぶ、英: Meiji University Baseball Club)は、東京六大学野球連盟に所属する大学野球チーム。明治大学の学生によって構成されている。本拠地は明治大学内海・島岡ボールパーク。OB組織の名称は駿台倶楽部。 1910年(明治43年)。 (詳細は野球部HPを参照) 明治大学では1906年(明治39年)、伴清吉なる人物が同志を集めて野球チームを結成したが、学校当局はそれを正式な野球部とは認めなかった[1]。 1910年(明治43年)5月、明治大学錦町分校の有志チームが中央大学有志チーム[2]と三菱ケ原で対戦した(1勝1敗)。この分校チームをベースに野球部を創設しようという動きが起こり、岸本辰雄校長が理事会内の反対論を押し切って創部を承認した[3]。 当時教授であった内海弘蔵が部長を、慶應OB佐竹官二 1913年(大正2年)、第1回極東オリンピックに日本代表として出場し、全フィリピンを破って優勝[6][7]。これが初の海外遠征となった。三大学リーグの明慶戦 翌1914年(大正3年)6月、「ワシントン大学」の招待を受けてアメリカ遠征に旅立ったが、いざシアトルに上陸してみるとワシントン大学の招待というのは真っ赤な嘘で、同大学の名を騙る悪徳ブローカーの仕業であることが判明する。そのため対戦相手を探しながらの遠征旅行(56戦26勝28敗2引き分け)は大赤字となり、創部5年目にして廃部の危機に直面する。この苦境を脱する一法として思い立ったのが早慶両校との有料試合であり、三大学リーグ戦で徴収した入場料は外国チーム招聘の費用・各野球部の海外遠征補助・グラウンド整備費・各野球部に必要な費用に充てるなど使途を明確に定めたものだった[8]。 三大学リーグ開幕戦となった1914年11月2日の慶明1回戦で慶應に初勝利を収めた[9]。早慶戦復活時の明大審判団(右から岡田源三郎・湯浅禎夫・二出川延明) 当時の明治に期待されていた役割のひとつが、1906年(明治39年)以降中断されて久しい早慶戦の復活であった。海外遠征などを通じて力をつけた明治は、1923年(大正12年)秋に五大学リーグ(すでに法政、立教が加盟)で悲願の初優勝を遂げた。その頃には剣道やラグビー、陸上競技などで早慶戦が始まっており、機が熟したと判断した明治は、内海部長が中心となり早慶戦復活の斡旋に入ることとなる[10]。ところが早慶野球部ともに復活に異存はないものの慶應OBが強硬に反対しており[11]、これに対して内海らは「早稲田との試合を拒む慶應を除外して、新リーグを組織する」[12] という実質的な最後通牒をつきつけて慶應の説得に成功、ようやく早慶戦復活が決し、東大を加えた東京六大学野球連盟が発足した(1925年)。1936年春優勝時の野球部 六大学リーグ当初は、湯浅禎夫・リーグ初の30勝投手中村峰雄ら強力投手陣を擁して秋春連覇するなど黄金時代を迎えた。1929年(昭和4年)、日本の野球チームとして初めて「世界一周」(アメリカ・ヨーロッパ・香港・中国などへ遠征)を行った。1931年(昭和6年)、読売新聞社の招聘により日米野球で来日したルー・ゲーリッグらを擁するメジャーリーグ選抜チーム相手に、全明治大チームとして対戦した。 1937年(昭和12年)からは、吉田正男らの活躍で史上初めて4シーズン連続で優勝を果たし第2期黄金時代が到来した。しかし戦局の悪化と野球統制の強化に伴い1943年(昭和18年)11月を最後に野球部は一時解散を余儀なくされた。この戦争で嶋清一・加藤三郎など多くの有望な選手たちを失った。 1945年(昭和20年)、終戦から間もない9月30日に練習を再開した。しかし部員たちはまだ復員しておらず、テスト生のみによる再出発だった。11月4日には戦後の初試合となる現役学生対OB(駿台倶楽部)戦を行った。しかし早慶がいち早く隆盛を迎える一方でリーグ優勝から遠ざかる日々が続いた。また一方で有望な選手らが途中退部してプロ野球に引き抜かれる事態も多々起きた。 こうしたことから大学当局が野球部の刷新に乗り出し1952年(昭和27年)、武田孟部長・島岡吉郎監督という人事を発表する。特に野球は素人同然だった島岡の就任に4年生の主力たちが猛然と反発、集団退部し「黒雲なびく駿河台」と校歌を捩った見出しが新聞を賑わす大騒動に発展した。しかし島岡の情熱的な指導と秋山登・土井淳のバッテリーら有力選手たちの大量入部で息を吹き返し、1953年(昭和28年)秋に戦後初優勝を遂げると1955年(昭和30年)までに全日本大学野球選手権大会で初の大会連覇となる2度の大学日本一(第3回・第4回)を果たし黄金時代を再来させた。島岡の指導は途中総監督に退任した時期を含め37年に及び、その独特の猛烈な指導は「人間力野球」といわれた。その間リーグ優勝15回、全国大会優勝8回(大学選手権5回、神宮大会3回)を達成した。同55年7月、米軍慰問旅行の途次在日米軍慰問で来日した南加大が明大、日本大、同志社大に3勝した。内海弘蔵と島岡吉郎の胸像 島岡の死去後は戦後野球部再建に奔走した別府隆彦が監督を継ぎ、数年の沈黙の後1992年(平成4年)から毎年のように優勝を重ねた。1995年(平成7年)、2年生川上憲伸投手を擁して明治神宮野球大会(第26回)決勝で青山学院大をサヨナラで下し、1979年(昭和54年)以来の優勝を果たした。翌1996年(平成8年)、3年生エース川上と2年生小笠原孝の両輪を擁して同大会(第27回)決勝で東北福祉大を下し東海大以来となる大会2校目の連覇を達成した。また、同1995年には大学野球史上初の女性選手ジョディ・ハーラーが東大戦に先発登板、2001年(平成13年)にも小林千紘が登板するなど進取に富んだ行動で話題を集めた。他方、1997年(平成9年)10月14日の立教4回戦、9回表1死の場面で明治・安田聖寛(育英・4年)の一ゴロを立教・長島大輔(宇都宮・4年)が安田の顔付近にタッチ。安田が仰向けにひっくり返り長島に掴みかかり、これを見て両チームの間で乱闘が発生。立教・樋渡勇哉投手(山梨 市川・3年)が右わき腹を傷める事態が発生した。この試合は6回表にも明治の選手が本塁に突入した際、捕手と接触し両チームが揉み合いとなる伏線があった[13]。翌10月15日、六大学連盟に山口孝部長と別府隆彦総監督の辞任、及び荒井信久監督と選手5人(4年3人、2年2人)のリーグ戦終了までの謹慎を了承された[14]。 21世紀に入り、優勝は4年生一場靖弘投手を擁した2004年(平成16年)春季の1回のみとやや低迷していたが、2008年(平成20年)春季リーグ戦で4年8季ぶりの優勝を果たした。新本拠地(次項にて詳述)が2006年(平成14年)秋に移転後、初めてとなる天皇杯をもたらした。2019年(平成31年/令和元年)は島岡の干支である亥年にちなみ、袖に猪のワッペンを復活させると、春季リーグ戦優勝後の大学選手権(第68回)で主将・エース森下暢仁の活躍もあり、平田勝男主将の下で制した1981年(昭和56年)春(第30回)以来となる38年ぶりの優勝を飾った。指揮をとった善波達也監督の大学1年時以来のことであり、恩師である島岡監督退任後初めての同大会優勝であった。 1913年(大正2年)に、第1回極東オリンピックに日本代表として出場し優勝[15][16]したときのフィリピン遠征が初の海外遠征であり、1929年(昭和4年)には日本の野球チームとして初めて「世界一周」(アメリカ・ヨーロッパ・香港・中国などへ遠征)を行った。1931年(昭和6年)に、読売新聞社の招聘により、日米野球でルー・ゲーリッグらを擁するメジャーリーグ選抜チームが来日した際には、全明治大チームとして対戦を行っている。早くから野球発祥地であるアメリカの有力チームとの交流が開始され、スタンフォード大学、シカゴ大学との交流試合、来日したベーブルースらの一行による訪問を受けた記録などが野球部史に残されている。また、OBには中国に渡り中国野球の父と呼ばれた梁扶初の名なども見られる。ドジャータウン 近年ではアメリカキャンプを不定期開催しており(2010年以降、コロナ禍前までの約10年間で4度)、ロサンゼルス・ドジャースとのキャンプ見学、選手交流、ドジャータウンや同マイナー施設でのキャンプ開催、ドジャース・マイナーチームとの交流試合(日本の大学として史上初の単独チームでのメジャーチームとの対戦)といった交流や、ダイヤモンドバックス本拠地でのキャンプ開催などが行われている。また、大学チームでは、レジー・ジャクソンやバリー・ボンズらのスーパースターのOBの存在で知られる全米トップチームのアリゾナ州立大学野球部との合同練習、交流試合などが催行されている。
創部
歴史
戦前
草創期の野球部(1911年)
第1回極東オリンピックに出場した野球部(1913年12月)
(1915年5月15日、柏木球場)
戦後1946年秋の明東戦
国際交流1925年のアメリカ遠征
本拠地詳細は「明治大学内海・島岡ボールパーク」を参照明治大学内海・島岡ボールパーク 第一球場