明治大学法学部(めいじだいがくほうがくぶ、英称:School of Law)は、明治大学が設置する法学部。明治大学大学院法学研究科(めいじだいがくだいがくいんほうがくけんきゅうか)は、法学を教育・研究する明治大学の大学院法学研究科。
概説1884年判事登用試験合格記念写真(上段左から2人目が岸本辰雄、中段左端が矢代操、中段左から3人目が西園寺公望、中段左から6人目が宮城浩蔵、中段右端が杉村虎一)[1]
明治大学法学部は法律学科のみから構成されており、他の大学のように政治学科は法学部には設置されていない。その母体は、司法省法学校の卒業生である岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操の3人がフランス法学を教授する仏法系学校として、1881年1月に設立した明治法律学校を起源とする[2]。ルーツとしては明治大学最古の学部である。
1903年、専門学校令により明治大学と改称、1904年には法学部、政学部、文学部、商学部が設置された(1908年に大学部(法科・政科・商科)に改称)。1920年、大学令による大学に昇格し、法学部と商学部の2学部を設置する。1949年には新制大学として認可され、法学部など6学部を設置。1952年には法学研究科を新制大学院に設置し[3]、現在に至る。
明治大学法学部では、大学院・法科大学院進学希望者に限り成績が特に優秀な学生は3年で卒業が可能となる早期卒業制度がある[4]。また、2年次より選択をしたコースに分かれて専門性を身につける。5つのコース制を設けており、ビジネスローコース、国際関係法コース、公共法務コース、法と情報コース、法曹コースと多岐にわたる[5]。
沿革大正期の明治大学3代目記念館左から久米愛 、三淵嘉子、中田正子(1939年)
1881年 - 岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操の3人が明治法律学校を設立(有楽町3丁目の旧島原藩邸内)。
1885年 - 『明法雑誌』創刊。
1886年 - 私立法律学校特別監督条規公布により、明治法律学校など五大法律学校が帝国大学特別監督下に入る。神田区駿河台南甲賀町に移転(かつてのお茶の水スクエアC館付近)。
1887年 - 講法会を設立(のちの校外生制度)。
1888年 - 五大法律学校連合大討論会に参加[6]。 東京法学校および東京仏学校との合併問題起こる[7]。
1892年 - 第三回帝国議会で民法・商法施行延期法案可決(仏法派に打撃)。
1893年 - 司法省から判事検事登用試験の指定校となる。
1900年 - 卒業生に明法学士の称号が授与されるようになる。
1903年 - 専門学校令により明治大学と改称、各学部に本科・専門科を設置。
1908年 - 学部内にあった専門科が独立し、本科を大学部、専門科を専門部と改称[8]。
1911年 - 駿河台校舎新築落成移転式を兼ねて創立30周年記念式を挙行。
1920年 - 旧制大学として認可され、法学部を設置[9]。植原・笹川事件(?1921年)[10]。
1922年 - はじめて学位を授与する(法学博士)。
1925年 - 政治経済学部設置認可[11]、希望者は同学部に移籍[12]。
1929年 - 刑事博物館を開設(1954年一般公開)。
1932年 - 女子部卒業生15名が法学部に入学[13]。