明治大学文学部(めいじだいがくぶんがくぶ、英称:School of Arts and Letters)は、明治大学が設置する文学部。明治大学大学院文学研究科(めいじだいがくだいがくいんぶんがくけんきゅうか)は、明治大学が設置する大学院文学研究科。 専門学校令による明治大学では1905年(明治38年)に錦町分校で文学研究会が発足し、夏目漱石や上田敏、内海弘蔵、登張竹風、服部躬冶
歴史夏目漱石(初期の講師)
短命に終わった初期の文学部
学生募集を停止した後も文部省への廃止届は出されず、学則上文科は存続していた[2]。そのため文科再興を求める声は1924年(大正13年)頃からたびたび上がった。しかし当時の明大は関東大震災後の校舎再建、政治経済学部独立問題、予科移転問題などで財政的に苦しく、文科再興まではとても手が回らなかった[3]。
専門部文科の復活明大文科 学生募集(『東京朝日新聞』 1932年3月26日付朝刊7面)
1931年(昭和6年)、明治大学創立50周年記念祝典を契機に文科復活運動が起こった。校友津村卓男を斡旋役に赤神良譲、畑耕一、松崎実、菅藤高徳、尾佐竹猛などが参加して文科復活懇談会が組織され、翌年2月25日の臨時商議員会および29日の特別委員会で専門部文科の復活を決議[4][5]、文芸・史学・新聞の3科をもって4月に開講を見るに至った(文科長:尾佐竹猛)[6]。
文芸科(3年制、昼間)
1932年に復活した文芸科の講師陣(後列左から岸田國士、ひとりおいて豊島与志雄、土屋文明、谷川徹三、ひとりおいて高橋健二、小林秀雄、今日出海、ひとりおいて吉田甲子太郎、舟橋聖一、山本有三、阿部知二、前列右から獅子文六、辰野隆等々)
初代科長:山本有三。「生きた文学の味得」をかかげ、里見ク、豊島与志雄、岸田國士、横光利一、小林秀雄、舟橋聖一、吉田甲子太郎、今日出海、土屋文明などの著名文壇人が講義を担当した[7]。「文学科」ではなくあえて「文芸科」としたのは「古典研究や外国語は他の文科大学に委せ主として現実の生活に即した文学に力をそゝ」ぐことに主眼を置いていたからであり[8]、実際のカリキュラムでも「作家研究」「映画研究」「美術解説・音楽解説」「新聞雑誌編集」などのユニークな科目が用意されていた[9]。
教授法も風変わりで、実習と称して歌舞伎、文楽、新劇、音楽、映画鑑賞、美術館めぐりがしばしば行われた。山本有三が開講の辞で「この学校を出ても何の資格も得られないからそのつもりで覚悟しておけ」と述べたように[10]、文部省の規格に縛られない自由さがあった。
史学科(3年制、夜間)
科長:渡辺世祐。「国史・東洋史の新しき研究」を標榜。講師の多くは帝大系で、演習を重視する学風は当時の専門部レベルでは珍しかった。1938年(昭和13年)に地理歴史科(地歴科)に改組し、1941年に同科卒業生の中等学校地理科教員資格を取得。これは他大学の高等師範部にならった措置である[11]。
新聞高等研究科(1年制、昼間)
初代科長:小野秀雄。大学または専門学校の卒業者、学部2年修了者を入学資格としてジャーナリズムの理論と実際を教授[12]。戦後の1950年に短大新聞科(2年制、夜間)が設置され、高等研究科の方は1952年に学生募集を停止、1954年3月に最後の卒業生を送り出して廃止となった[13]。
演劇映画科
今日の演劇学専攻の源流。1938年(昭和13年)、岸田國士によって設置[14]。しかし、当の岸田が間もなく大政翼賛会文化部長に転じたこともあってほとんど学生は集まらず、事実上形骸化した[15]。
鳴り物入りで復活した文科ではあったが、しばらくは文芸科240人、史学科150人の学生定員をなかなか満たせず、他の科から「こんな欠損の文科なんかつぶしてしまえ」と批判されたこともあった[16]。しかし、昭和15年度から志願者数は増加に転じ[17]、太平洋戦争中も地歴科が学生募集を一時停止しただけで(間もなく再開)、文部省から文科の廃止を求められることもなかった[18]。登呂遺跡の発掘調査
戦後間もなく専門部文科を旧制文学部に昇格させることが検討された。このときの「尾佐竹構想」では文学科・史学科・哲学科・地理学科を設置することとされていたが、尾佐竹専門部長が急死したことや、新学制への移行が目前に迫っていたこともあって旧制度下での文学部昇格は見送られた[19]。
1947年(昭和22年)、登呂遺跡の発掘調査に後藤守一・杉原荘介と地歴科の学生が多数参加した。