明治十四年の政変
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大隈重信

明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)とは、明治14年(1881年)10月に参議大隈重信明治政府中枢から追放された事件。自由民権運動が勃興する中で発生した開拓使官有物払下げ事件に端を発した事件であり、大隈と大隈系官僚が政府から去ったことにより政府内の構造が大きく変容した。
前史
政変前の政府構造

明治11年(1878年)5月に大久保利通が暗殺され、政府の中枢を担う内閣は参議伊藤博文が主導権を握る形となった[1]。大蔵卿を兼ね、財政における実力者であった大隈も伊藤の立場を認め、「君が大いに尽力せよ、僕はすぐれた君に従って事を成し遂げるため、一緒に死ぬまで尽力しよう」と伊藤を支える意思を表明している[1]。薩摩派からは伊藤に対抗する存在として期待されていたが、伊藤の盟友である井上馨の参議就任にも協力するなど、伊藤に敵対する素振りは見せなかった[2]

しかし明治13年(1880年)頃には大隈発案による外債募集を巡って伊藤らと意見を違え、長州閥と対立することも起きていた。7月頃には井上が伊藤に、大隈を駐ロシア大使に左遷する案が参議の間で出ていると述べ、8月には伊藤が右大臣岩倉具視に対し、大隈を開拓使長官にしてはどうかと提案している[3]

一方で大隈は明治11年頃から福澤諭吉と親交を深めるようになり、慶應義塾への資金援助や横浜正金銀行の設立問題等で協力するようになった[4]
立憲体制導入問題「大日本帝国憲法#沿革」も参照

明治12年(1879年)、国会開設運動が興隆し、政府内でも憲法制定や国会開設について議論が開始されていた。明治9年(1876年)からは元老院において憲法草案の作成が進められていた。明治12年12月に参議山縣有朋が立憲政体に関する意見書を提出したことにより、太政大臣三条実美と岩倉は参議から立憲政体に関する意見を天皇に提出させることとした[5]。翌明治13年2月には黒田清隆、7月には井上、12月には伊藤が提出した[5]。このうち黒田は立憲政体は時期尚早であると述べ、山縣と井上はヨーロッパの知識を盛り込んだだけのものであった[6]

伊藤は井上毅の協力を得て意見書を作成した。その内容は「国会創設は望ましいことではあるが、大事を急いで行うのは望ましくない」「国会を作る場合は上下両院を作り、均衡を保つべきである」「上院を作成する準備のため、現在の元老院を拡張し、華族士族から公選された代表者に法律を作成させる」「下院の準備として府県会議員から公選の会計検査を行う検査員を選出する」というものであった[7]。しかし大隈は意見書を出そうとはせず、明治14年を迎えた。
熱海会議

明治14年1月から2月にかけ、伊藤は熱海の旅館に大隈・井上・黒田を招き、立憲政体等について語り合ったが、合意は行われなかった[8]。またこの会議の中では開拓使の廃止問題が取り上げられた。黒田は開拓使の継続が必要であると主張したが、大隈は財政上の問題で継続は困難であるとした[9]。官有物払下げの方針が定まり、五代友厚が引き受け手として名乗りを上げた[9]
大隈の意見書

3月になると、未だ意見書を提出していなかった大隈に対し、左大臣有栖川宮熾仁親王から督促が行われた。大隈は有栖川宮に対し、他の参議・大臣に見せないことを条件に意見書を提出した[10]。大隈の意見書は「早急に欽定憲法を制定し、2年後に国会を開く」「イギリス型の立憲政治を導入し、政党内閣を組織させる」など、あまりにも急進的なものであった[11]。有栖川宮は意見書を三条と岩倉に見せており、岩倉は伊藤が大隈の意見書について知らないということを察知した。意見書の内容があまりにも過激であると考えた岩倉は、伊藤に知られる前に大隈と話そうという手紙を書いている[12]。しかし大隈は伊藤と意見を交換しようとはしなかった。

7月、伊藤が大隈の意見書の内容を知り、激怒して出仕を行わなくなった[13]。7月4日大隈は伊藤の元に赴いて弁解した。伊藤は大隈が福澤の代弁をするようなことをするのはおかしいとし、またなぜ自分に話さなかったのかと詰め寄った。これに対して大隈は、意見書の内容は実効性のあるものではなく、自分の見込みを書いただけで福澤の意見ではないと弁解し、「繰り返し繰り返し謝るのみです」「よろしく思いやりの心で許してください」と謝罪した[14]。伊藤は7月5日より再び出仕したが、意見書について再度大隈に確認し、岩倉に問題は十分に解決していないと伝えるなど、二人の間には亀裂が残った[15]。この段階では三条や岩倉は伊藤と大隈の間を取り持とうとしていた[13]

大隈の意見書は政変後に金子堅太郎佐々木高行に「福澤ニ綴ラセタリ」と福澤の筆によるものであると伝え、福澤自身もこれを認めたと語っている[16]。慶應義塾で教えを受け、太政官の大書記官を務めていた矢野文雄は後年、「わが輩が書いたもののやうである」と回想している[17]
政変
払下げ問題の漏洩「開拓使官有物払下げ事件」も参照

一方で明治13年頃から開拓使の産業・土地等を民間に払い下げる計画が進められていた。明治14年7月21日、黒田は閣議において、開拓使の官僚によって構成された「北新社」と、五代が参加していた「関西貿易社」[注釈 1]への払下げを提議した。

閣議において左大臣有栖川宮熾仁親王や大隈は反対[注釈 2]したが、閣議では採択された[19]


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