この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年11月)
凡例明智 光秀
明智光秀像(本徳寺蔵)
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕
永正13年(1516年)[注釈 1]享禄元年(1528年) [2][注釈 4][注釈 5][注釈 6]
死没天正10年6月13日(1582年7月2日[注釈 2])[異説あり] [6][7][8][9][10][注釈 7]
改名彦太郎(幼名)[11]、光秀→惟任光秀
別名通称:十兵衛
雅号:咲庵
あだ名:キンカ頭[12][注釈 8]
戒名鳳岳院殿輝雲道e大禅定門[13]
輝雲道e禅定門[14][15]
秀岳院宗光禅定門[16]
前日洲条鉄光秀居士[17]
長存寺殿明窓玄智大禅定門[18]
墓所谷性寺
明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
通説では美濃国の明智氏の支流の人物で、俗に美濃の明智荘の明智城の出身と言われているが、他の説もある[22]。このため前歴不明。越前国の一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に十年ほど暮らし、このころに医学の知識を身に付ける[23]。その後、足利義昭に仕え、さらに織田信長に仕えるようになった。元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちへ貢献し、坂本城の城主となる。天正元年(1573年)の一乗谷攻略や丹波攻略にも貢献した。
天正10年(1582年)、京都の本能寺で織田信長を討ち、その息子信忠も二条新御所で自刃に追いやり(本能寺の変)、信長親子による政権に幕を引いた。その後、自らも織田信孝・羽柴秀吉らに敗れて討ち取られたとされるが、当時光秀の首を確認したという文献資料は残されていない(山崎の戦い)。 清和源氏の土岐氏支流[注釈 12]である明智氏に生まれたとされるが、一次史料がないため詳細は不明。父は江戸時代の諸系図などでは明智光綱[25]・明智光国・明智光隆などと記載されるが、一次史料からは土岐明智氏嫡系の人物に「光」の字を有している者がいないため、江戸時代の創作であると考えられる[19]。小林正信
生涯
出自・生年・出身地
光秀は自身の出自に関する証言をほとんど残していないが、『松雲公採集遺編類纂』所収の「戒和上昔今禄」という記録には、天正5年(1577年)に発生した興福寺と東大寺の相論の奉行を務めた光秀が「我、先祖致忠節故、過分ニ所知被下シ尊氏御判御直書等所持スレトモ」と発言したことが記されている。この記述に従えば、光秀の祖先が足利尊氏に仕えてその書状を光秀が持っていたということになる。