明恵
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明恵
承安3年1月8日 - 寛喜4年1月19日旧暦
1173年2月21日 - 1232年2月11日ユリウス暦〉)
明恵上人(『集古十種』)
幼名薬師丸
号明恵房(房号)
諱成弁→高弁
尊称明恵上人、栂尾上人
生地紀伊国有田郡石垣庄吉原村
(現:和歌山県有田川町歓喜寺中越)
没地高山寺
宗旨華厳宗
寺院高山寺
上覚
弟子喜海
著作『摧邪輪』他多数
高山寺禅堂院
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「紙本著色明恵上人像」(高山寺蔵、国宝) 高弁(明恵)が山中の松林の樹上で坐禅を組むすがたを、弟子の恵日房成忍が筆写したものといわれる。

明恵(みょうえ)は、鎌倉時代前期の華厳宗。法諱は高弁(こうべん)。明恵上人・栂尾(とがのお)上人とも呼ばれる。父は平重国。母は湯浅宗重の四女。現在の和歌山県有田川町出身。華厳宗中興の祖と称される[注釈 1]
生涯

承安3年(1173年)1月8日、高倉上皇の武者所に伺候した平重国紀伊国の有力者であった湯浅宗重四女の子として紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現:和歌山県有田川町歓喜寺中越)で生まれた。幼名は薬師丸。

治承4年(1180年)、9歳(数え年。以下同様)にして両親を失い、翌年、高雄山神護寺文覚の弟子で叔父の上覚に師事(のち、文覚にも師事)、華厳五教章・倶舎頌を読んだ[1]文治4年(1188年)に出家東大寺具足戒を受けた。法諱は成弁(のちに高弁に改名)。仁和寺真言密教実尊や興然に、東大寺の尊勝院で華厳宗倶舎宗の教学を景雅や聖詮に、悉曇を尊印に、栄西に学び、将来を嘱望された[1][2]。20歳前後の明恵は入門書の類を数多く筆写している[3]

しかし、21歳のときに国家的法会への参加要請[注釈 2]を拒み、23歳で俗縁を絶って紀伊国有田郡白上に遁世し、こののち約3年にわたって白上山で修行をかさねた[4]。この遁世した時に詠んだ和歌が「山寺は法師くさくてゐたからず心清くばくそふく(便所のこと)にても」である。この頃、人間を辞して少しでも如来の跡を踏まんと思い、右耳の外耳を剃刀で自ら切り落とした。26歳のころ、高雄山の文覚の勧めで山城国栂尾(とがのお)に住み、華厳の教学を講じたこともあった[注釈 3]が、その年の秋、10余名の弟子とともにふたたび白上に移った[2][3]。こののち、約8年間は筏立など紀伊国内を転々としながら主に紀伊に滞在して修行と学問の生活を送った[3]。その間、元久元年(1205年)、釈迦への思慕の念が深い明恵は『大唐天竺里程記』(だいとうてんじくりていき)をつくり、天竺インド)へ渡って仏跡を巡礼しようと企画したが、春日明神神託のため、これを断念した。明恵はまた、これに先だつ建仁2年(1202年)にもインドに渡ろうとしたが、このときは病気のため断念している[2][3][5]

遁世僧となった明恵は、建永元年(1206年)、後鳥羽上皇から栂尾の地を下賜されて高山寺を開山し、華厳教学の研究などの学問や坐禅修行などの観行にはげみ、戒律を重んじて顕密諸宗の復興に尽力した[5]。明恵は華厳の教えと密教との統一・融合をはかり、この教えはのちに華厳密教と称された[3]。高山寺の寺号は、『華厳経』の「日出でて先ず高山を照らす」という句によったといわれている[3]。この地には貞観年間(859年-877年)より「度賀尾(とがお)寺」という古寺があったものの年月を経て著しく荒廃しており、明恵はこれに改修を加えて道場とした[注釈 4]

明恵は、法相宗貞慶三論宗明遍とならぶ超人的な学僧とも評される[5]が、学問としての教説理解よりも実際の修行を重視し、きびしく戒律を護って身を持することきわめて謹厳であった[3]。上覚からは伝法灌頂を受けており、学問研究と実践修行の統一を図った[2]。その人柄は、無欲無私にして清廉、なおかつ世俗権力・権勢を怖れるところがいささかもなかった。かれの打ち立てた華厳密教は、晩年にいたるまで俗人が理解しやすいようさまざまに工夫されたものであった[3]。たとえば、在家の人びとに対しては三時三宝礼の行儀により、『観無量寿経』に説く上品上生によって極楽往生できるとし、「南無三宝後生たすけさせ給へ」あるいは「南無三宝菩提心、現当二世所願円満」等の言葉を唱えることを強調するなど[6][7]、後述するように、表面的には専修念仏をきびしく非難しながらも浄土門諸宗の説く易行の提唱を学びとり、それによって従来の学問中心の仏教からの脱皮をはかろうとする一面もあった[8]。なお、松尾剛次は、明恵を祖師とする教団を「新義華厳教団」と呼んでいる[4]

建暦2年(1212年)、法然批判の書『摧邪輪』を著しており、翌年には『摧邪輪荘厳記』を著してそれを補足している。承久3年(1221年)の承久の乱では後鳥羽上皇方の敗兵をかくまっている[2]貞応2年(1223年7月、明恵の教団によって山城国善妙寺の落慶供養がおこなわれたが、この寺は、中御門宗行の後妻が承久の乱の首謀者のひとりとして鎌倉への護送中に斬殺された夫の菩提を弔うために建てた尼寺であり、本尊は高山寺に安置されていた釈迦如来像が遷されたものであった[9]

明恵は、仏陀の説いた戒律を重んじることこそ、その精神を受けつぐものであると主張し、生涯にわたり戒律の護持と普及を身をもって実践した[10]町田宗鳳は「比丘という言葉には、インド仏教以来の戒律を守る人という厳粛な意味が含まれているが、その資格を満たすのは、ひょっとしたら長い日本仏教史の中で、明恵ぐらいかもしれない」と述べている[11]。また、当時広がりつつあった浄土諸宗の進出を阻止するために苦慮しており、顕密諸宗とくに密教のなかからありうべき信仰をとりあげて、その普及と宣教に努力した[1]

晩年は講義、説戒、坐禅修行に努め、光明真言の普及にも尽力した。寛喜3年(1231年)には、故地である紀州施無畏寺の開基として湯浅氏に招かれた。


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