西暦換算に関する注意
1582年以前に発生した日本の地震の西暦換算については、ユリウス暦であるか、グレゴリオ暦であるかを明記してください。Wikipediaの表記ガイドでは原則としてユリウス暦で表記することになっていますが、『理科年表』など多くの文献ではグレゴリオ暦表記となっており、混乱を避けるために注意が必要です。
詳細は日本の歴史地震の西暦換算を参照してください。
明応地震
明応地震の震度分布[1][2]
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震央の位置
本震
発生日1498年9月20日
ユリウス暦1498年9月11日
明応7年8月25日
発生時刻8時ごろ
震央東海道沖
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度00分 東経138度00分 / 北緯34.0度 東経138.0度 / 34.0; 138.0
明応地震(めいおうじしん)は、室町時代後期(戦国時代初期)の西暦1498年9月20日[注 1](明応7年8月25日)に日本で発生した大地震である[3]。南海トラフ沿いの巨大地震(南海トラフ巨大地震)と推定されている[注 2]。明応東海地震(めいおうとうかいじしん)とも呼ばれている[5][6][7]。 震央は東海道沖として北緯34度00分 東経138度00分 / 北緯34.0度 東経138.0度 / 34.0; 138.0
概要
紀伊から房総にかけての沿岸に津波が押し寄せ、伊勢大湊で家屋流失1千戸、溺死5千、伊勢・志摩で溺死1万、静岡県志太郡で流死2万6千などの被害が出たという[3]。記録にある被害分布が安政東海地震に類似しており[1]、震源域は東海道沖と思われるものであった[8]。一方で、四国でも一部大地震があったとする記録が見出され、また発掘調査から同時期の南海道沖の地震の存在の可能性が唱えられている。 明応7年8月25日辰刻(ユリウス暦1498年9月11日8時頃)(以下西暦換算はユリウス暦)、東海道沖で大地震が発生した。 『御湯殿の上の日記』[9]、『実隆公記』[10]、『後法興院記』[11]、『言国卿記』[12]および『大乗院寺社雑事記』[12]等に京都や奈良など畿内付近の記録が見られる。『言国卿記』や『御湯殿の上の日記』には閏10月まで、『実隆公記』には11月7日まで余震と思われる地震の記録がある。畿内の被害と思われるものは『大乗院寺社雑事記』にある興福寺と見られる地蔵堂の庇が崩壊した記録である。『後法興院記』の東海道沿岸における記録は伝聞によるもので「大地震之日、伊勢、参河、駿河、伊豆大浪打寄、海辺二三十町之民屋悉溺水、人歿命、其外牛馬類不知其数云々、前代未聞事也」とある。1096年永長地震では駿河や伊勢の津波被害は伝聞として伝えられ、京都で書かれた日記に記事が見られた[13]。しかし、明応の頃になると畿内付近のみならず、遠江や駿河で記された記録も確認されるようになる[14]。
東海道沖地震の古文書による記録
各地の揺れは江戸時代の安政東海地震や宝永地震に共通するが震害の記録は少ない。震害はそれほどでもないと記す文献もあるが[19]、『円通松堂禅師語録』[20]によれば遠江では山崩れや地割れがあり、同書に記された浅羽低地付近の揺れの激しさの描写は震度7に相当する可能性が高い[21]。『熊野年代記』[22]の記録によれば熊野本宮の社殿が倒壊、那智の坊舎の崩壊、紀伊湯の峯温泉の湧出が10月8日まで42日間停止した[2]。