明応の政変
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明応の政変(めいおうのせいへん)は、室町時代明応2年(1493年)4月に細川政元日野富子と共に起こした、室町幕府における将軍の擁廃立事件。

この政変により、将軍は足利義材(義稙)から足利義遐(義澄)へと代えられ、以後将軍家は義稙流と義澄流に二分された。なお、鈴木良一が提唱して以降、日本史学界においては戦国時代の始期をこの事件に求める説がある[1]
経緯
義材の将軍就任と義視の死足利義材(足利義稙)

足利義材は、応仁の乱で西軍の盟主に擁立された義視の嫡子である。乱が西軍劣勢で収束すると、父と共に土岐成頼を頼って美濃へ逃れていた。義材の従兄の9代将軍義尚守護大名奉公衆を率い、六角行高(高頼)討伐(長享・延徳の乱)のため近江親征するが、果たせないまま長享3年(1489年)3月に近江で病死する。

義材は父と共に上洛して10代将軍に推挙されるが、伯父の前将軍足利義政管領細川政元などは義視の子が将軍となることに難色を示し、堀越公方足利政知の子で天龍寺香厳院主となっていた義尚と義材の従兄清晃(足利義澄)を推す。しかし、日野富子が甥(妹の子)である義材を後援し、翌延徳2年(1490年)正月に義政が死去すると、義視の出家などを条件として義材の10代将軍就任が決定した。富子は義政の御台所、義尚の生母で、将軍家に嫁いで40年近くになり、その間将軍に代わって政務を取り仕切ることもあった[2]。将軍家を代表するような人物でもあった彼女の支持は義材の将軍就任に大きな意味を持ち[2]、実際に義材の家督継承を朝廷へ報告したのも彼女であった[3]

この決定に反対した政元や伊勢貞宗らは義視父子と対立し、4月27日に貞宗は政所頭人を辞任した。貞宗は前将軍の義尚が幼少時から側近として仕えて養育に尽くし、日野富子の信任が厚かったが、その父・伊勢貞親文正の政変の際に義尚のために義視殺害を義政に進言して失脚しており[4]、義材の将軍就任後に後難を恐れたためと言われている。また政元の父・細川勝元は応仁の乱で義視の西軍と戦った東軍の総大将であり、これは、応仁の乱で義尚を支持し義視と敵対した人々が共有する危機感であった。

ところが奇しくも同じ日、日野富子が将軍後継から外した清晃のために義尚の住んでいた小川御所(小川殿)を譲渡することを決めた[5]。将軍の象徴である邸宅を清晃が継ぐことを知った義視は義材を軽視するものと激怒して、5月には富子に無断で小川御所を破却し、その所領を差し押さえた[5]。富子が清晃のために小川御所を譲渡しようとした背景には、いきなり権力の座に就いた義材や義視が暴走しないように牽制する意図があったとされる[5]。その後、富子はこれを義視の約束違反と反発して義材との距離を置くようになり、義視の病死後も関係は改善されなかった。

なお、義材の将軍就任後の8月26日になって、義材と清晃の対面が行われて両者和解の運びとなった(『政覚大僧正記』延徳2年閏8月9日条)が、これは細川政元や彼の意を受けた葦洲等縁の奔走によるものであった[6]

7月5日、義材は正式に朝廷から将軍に任命され[7]、義視も准三宮の地位を与えられ、しばらくは父子による二頭体制が続くかと思われた。だが、11月に義視が腫物を患い、必死の看病も虚しく、延徳3年(1491年)1月7日に死去した[8]。将軍就任間もない義材にとって、大乱中に西軍の盟主として政治的経験を積んできた義視は頼もしき存在であり、その死が与えた影響は大きかった[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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