明徳館_(久保田藩)
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明徳館絵図

明徳館(めいとくかん)は、久保田藩第9代藩主・佐竹義和が開いた藩校。.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} 旧明徳館エリアなかいち内、秋田市にぎわい交流館裏手にある明徳館址を示す石碑
概観

佐竹義和が、時の老中松平定信の教学振興の施政に従い、京都から来藩の儒者村瀬栲亭の協力で設立した。士分および徒並(かちなみ)を対象とした[1]
学風および特色

朱子学者である初代祭酒・中山菁莪の学風で開学され[2]、また江戸から招かれた儒者山本北山の色濃い影響により、『孝経』が重んじられた[3]

生徒は15-16歳以下の低い学級を東学、それ以上の学級を西学と呼んでわけた。東学は通学生40人、寄宿生50人ほどであり、西学生は100人ほどであった。春秋二度の試験があり、藩への出仕のためには出仕試験を通らなければならなかった[4]

明徳館が作られる前は、家格によって藩の役職が決められていた。明徳館の最高職の祭酒であった野上国佐は「学館で成績が良かった者は、藩校の教師になるだけではなく、いろいろな役職に転出していくから重要な役割を持っているのだ」と明確に書いている[5]。したがって、下級の書士にとって、明徳館はチャンスをつかみ取る場所となっており、ここから巣立つ者には、各種の奉行となり藩の政策を明確に左右する役職に進出した者が多かった。中には中安主典のように、微禄の出身でありながら家老職まで出生した者もいる[6]

明徳館の教育方針として特筆すべき所は、注入主義的な一方的教育ではなく議論を重視したことであった。現在の大学でのゼミのように、テーマを決めてそれを元に他の学生や教授と論議をする形態である。野上国佐は十二所や檜山に出張指導した際に「会読、論議日々也」、「論議も相応にこれあり候」と記述している。石井忠行は『伊豆園茶話』で祭酒であった瀬谷小太郎を評して「この人の癖は、もっともな意見であってもまずそれを押さえて異論を差し挟む。(中略)論を発展させるために異論を出すのである。」と記している。自らの知識を用いて持論を組み立て、それを主張するような人材を明徳館は育てていった[6]

明徳館からは何人かの「改革派官僚」が誕生している。金易右衛門野上国佐介川東馬らが明徳館出身の改革派官僚として上げられる。彼らは幾つもの役職を勤め有能さを発揮したが、いずれも強烈な個性を持ち、かつ雄弁だった。彼らは、それまでの藩の役人はもとより、改革派官僚間での論議や対立をもいとわず、藩の財政不足や天保の大飢饉などの問題に関わっていった。このように、個性を発揮させるような教育こそが明徳館の教育であった。
沿革
略歴

寛政元年7月8日(1789年8月28日)、久保田藩の家老・疋田斎(柳塘)の申し渡しによって藩校建設が公式に決定し、翌2年3月11日(1790年4月24日)に校舎完成、寛政4年3月14日(1792年5月4日)開講された[7]。校名を明道館から明徳館とし、武芸所、医学館、和学方等を徐々に整備し、明治初期まで存続した。
年表

寛政元年(1789年) - 藩校創設の旨を布達
[8]

寛政2年(1790年) - 東根小屋町(現在の秋田市中通二丁目)に校舎落成、当初校名はなく、単に学館と称する。江戸に日知館を創設[9]

寛政4年(1792年) - 学館開講。

寛政5年(1793年) - 幕儒山本北山を招き、学則を制定。校名を明道館と定めた[2]

寛政6年(1793年) - 督学開始[10]

寛政7年(1795年) - 医学館開設[11]。提学開始[10]

文化8年(1811年) - 第2代祭酒の金宇平治(岳陽)が校名を明徳館と改めた[3]

文政8年(1825年) - 和学方開設[11]

明治元年(1868年) - 戊辰戦争の際、明徳館は奥羽鎮撫総督の本陣・政庁・政務所とされた[12]

明治2年(1869年) - 明徳館再開[12]

明治3年(1870年) - 藩学校と改称[13]

明治4年(1871年) - 廃藩置県にともない県学校と改称するが、自然閉鎖の状態となる[13]

組織

久保田城下東根小屋に学館(のち明道館、明徳館)が設けられた[7] ほか、江戸詰めの藩士のために江戸に日知館が[9]、また領内6郡の藩士・陪臣のために10箇所にわたり郷校が[14]、それぞれ設けられた。
藩校
本館
東学
予科。
四書孝経を中心に、史記漢書左伝国語荀子韓非子荘子なども読習した[15]
西学
本科。詩経家、書経家、礼記家、家、儀礼家、春秋家、周礼家の「七局」に分かれ、専攻別の研学をした[15]
別科
医学館
藩内の内科、外科、産婆、鍼灸にいたる医療および医事関係者すべてを管理した。医家子弟の希望者には無条件で入学を許可、士分の二・三男や農家・商家の子弟の場合は事由調査のうえ入学を許可した
[1][16][註釈 1]
武芸所

礼法方

算法方

和学方

江戸藩邸
日知館(
下谷三味線堀)
山本北山を招いて藩主佐竹義和のほか江戸詰めの藩士が聴講した。本館の初代文学・第2代祭酒を務めた金岳陽や第6代文学・第4代祭酒の野上陳令は日知館出身である[9]
郷校

郷校それぞれが独立した教学機関でありながら、藩校本館の下部機構でもあった。郷校における成績優良者には明徳館本館への進学の道も開かれていた[15][註釈 2]


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