明大通り
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明大通り(めいだいどおり)は、東京都千代田区神田駿河台の、外堀通りのお茶の水交差点靖国通りの駿河台下交差点を結ぶ、全長約600mの区間を指す(区道101号線)。
概要明大通り

日本の代表的な学生街文教地区である御茶ノ水の中心を南北に貫く、界隈のシンボル的な通りである。通りの名称は沿道に明治大学駿河台キャンパス(本部キャンパス)が立地していることに由来する。

界隈は教育施設病院が建ち並ぶ文教エリアであると同時に、付近一帯でそれぞれ日本最大規模の音楽スポーツ専門店街が形成されている。沿道に世界最大規模の集積度ともいわれる楽器店街があり、駿河台の高台からを下り、通り終点の駿河台下交差点から東側には国内最大規模のスポーツショップ街、西側には世界最大規模の古書店街である「神田古書店街」が連なる。また、通り南部には近年カレー専門店が集積してきている。

バブル時代には1平方メートルあたり2200万円の地価を記録し、2000年代初期まで日本一地価の高い地域と知られていた。バブル期の終わった今は2200万円から550万円と落ちてしまったが、ここ数年では日本で2番目に高い街となる。

1日に4万人の通行者がある[1]プラタナス並木道であるが、2010年代より千代田区にて歩道整備・拡幅工事の計画が進められ、住民などの反対運動による大幅な見直しの末、2025年度に竣工予定となっている。
歴史「東都三十六景 お茶の水」(歌川広重画)
屋敷街としての駿河台

明大通りが所在する神田駿河台は、江戸指折りの風光明媚な高台として知られ、徳川家康が若き日の伊達政宗に「江戸城総構え図」(見取図)を示して問い掛けをした際、正宗が江戸城を討つならこの地に大砲を置き砲撃すると返したという逸話が残る。また、後に政宗は江戸幕府二代将軍徳川秀忠の命を受け、本郷台地(cf. 本郷)の南端に当たる「神田山(かんだやま)」を採掘して外堀とする大規模工事を行い、更に四代将軍徳川家綱の命により小石川の採掘を再び仙台藩が行ったことから、仙台堀(現在の神田川)とも呼ばれるようになった(山本周五郎小説樅ノ木は残った」はこの工事による伊達藩内紛の様子が描かれている)。そして、下流昌平橋室町時代 に架設)から富士山と一緒に望めることが出来たその渓谷的な景観は、中国名勝赤壁」に擬えて「小赤壁」とも言われ、歌川広重葛飾北斎昇亭北寿歌川芳員歌川国芳小林清親川瀬巴水等々、多くの浮世絵師に描かれるに至った。

明大通り北端付近に所在した高林寺(沿道に碑がある)に立ち寄った秀忠が境内の湧水で淹れたを褒め称え、以来、銘水として将軍家の茶の湯として取り立てられたことが「御茶ノ水」の地名の由来となっている。江戸期は、沿道に「天下のご意見番」として名高い大久保彦左衛門や、日本の近代化をリードした小栗上野介、幕府三大改革享保の改革」のブレーンを担った室鳩巣などの屋敷が建ち並ぶ屋敷街であった。明治大学リバティータワー裏手の錦華公園は大名屋敷時代の石組が現存しており、当時の大名庭園の格式が今に伝えられている(美大予備校生時代の松任谷由実が読書使い等で度々訪れた公園であり、「『いちご白書』をもう一度」、「白い朝まで」などの歌詞に登場する)
明治維新・明治国家のリーダーゆかりの地小松宮邸(現在のアカデミーコモンの場所)

小栗屋敷内には、後に江戸幕府直轄の最高学府「昌平坂学問所」の教授を務め、幕末の政治・外交を支えた安積艮斎の私塾『見山楼』(富士山が望めたことによる命名。後に明大通り南部の富士見坂に移転。)があり、小栗上野介吉田松陰高杉晋作岩崎弥太郎木村芥舟(摂津守)、秋月悌次郎川路聖謨栗本鋤雲間崎哲馬斎藤竹堂谷干城清河八郎福地源一郎中村正直権田直助など、幕末・明治の動乱期に活躍した数多くのリーダーたちが巣立っており(2282人の名前が門人帳に記されている)、近代国家の樹立に大きな影響を与えた。

また、明治時代になると、公卿華族首相財閥トップ、学識者など、明治国家のリーダー達が多く居住するようになり、明大通り東側に西園寺公望住友友純、更に奥には岩崎弥太郎(及び三菱財閥本部)、西側には小松宮坊城家加藤高明池田謙斎薩摩治郎八などの邸宅が建ち並び、エスタブリッシュメント層の居住街区たる様相を呈した。

明治維新・明治国家のリーダーを多く輩出したゆかりの地の大学が明治の名を名乗っていることはシンボリックである。現在のアカデミーコモンの場所にあった小松宮邸では、明治天皇嘉仁親王(後の大正天皇)などを帯同し二度行幸しており、各皇族伊藤博文首相なども参加した晩餐会などが催されている。湯島聖堂
文教街の形成

一方、神田川を隔てた北側は学問の歴史と伝統が色濃い地域であり、五代将軍徳川綱吉儒学振興を図るため、元禄3年(1690年)に学問聖堂(現在の湯島聖堂)を創建し、寛政9年1797年)に江戸幕府直轄の世に名高い昌平坂学問所が設置された(「日本の学校教育発祥の地」とされる)。明治時代には敷地内に文部省や国立博物館(現在の東京国立博物館及び国立科学博物館の前身)等と共に、日本初の官立師範学校である東京師範学校(現在の筑波大学)や東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)が構内界隈に設置されるなど、近代日本の学問、学校教育の歴史を象徴する地であった。学問所時代の敷地はそのほとんどが現在の明大通り北端に立地する東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっており、明大通り界隈も次第に明大を始めとした教育機関病院などが開設されるようになり、現在の文教街の形成に至っている。御茶ノ水駅旧駅舎とお茶の水橋

その後、更に教育機関の集積化が進み日本最大の学生街と称されるようになり、1960年代の学生運動が盛んな時期には日本の学生運動史上有名な「神田カルチェ・ラタン闘争」の舞台となり、明大通りの2か所(現在のリバティタワーアカデミーコモンの前)で学生たちがバリケード封鎖を行い、機動隊と烈しい衝突が繰り広げられ、中央総武両線で計40本が運休する事態となった。

また、御茶ノ水付近一帯は学生人口の増加などにより、音楽スポーツのそれぞれ国内最大の専門店街が形成され、更に「神田カレーグランプリ」や「JAZZ AUDITORIA in WATERRAS」などに代表されるグルメ文化、音楽文化をもつ広範な文化ゾーンが形成され、明大通りはその中心を成すシンボル的な通りとなっている。
文士ゆかりの地山の上ホテル

文士、文学者ゆかりの地でもあり、夏目漱石上田敏山本有三小林秀雄など多くの著名文壇人が登壇してきた明大文学部の本拠である他、沿道には室鳩巣松尾芭蕉重野安繹などが住み、宮沢賢治が上京の際に逗留していた宿などがあった。また、通り東側では、首相在任中の西園寺公望が私邸に森鴎外幸田露伴泉鏡花など文壇を代表する20人の文士を招き、当時の文壇を揺るがせた「雨声会」(うせいかい)という連続の雅会を催し、明大通り交差点を挟んだ西側には川端康成三島由紀夫池波正太郎伊集院静などが執筆の定宿として使い、文豪のホテルとして知られる山の上ホテルが立地する。御茶ノ水橋落成の際など度々駿河台を訪れていた樋口一葉は往時の邸宅街駿河台の様子を「十三夜」に描写し、駿河台の急坂を車が上れず難儀した森村誠一が明大生達に援助されその後の大学進学を決意した逸話などが残る。因みに、駿河台下から明大にかけての坂は名を「文坂」という。

雅称として「お茶の谷」という意味の「茗溪(めいけい)」という呼び名が存在し、明大通り周辺にこの名を冠した通りや商店街がある他、前述の筑波大学の同窓会「茗渓会」にその名が残り、やはりこの地に縁のあった同元附属学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)の校歌にも「茗渓」という呼び名が登場する[2]
沿道の主な施設リバティタワーお茶の水スクエアアカデミーコモン佐々木研究所(杏雲堂病院)G'CLUB TOKYO


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