「明朝」はこの項目へ転送されています。
書体については「明朝体」をご覧ください。
太陽が昇る時間帯については「朝」をご覧ください。
この項目では、中国の王朝について記述しています。「明朝」の語義については、ウィクショナリーの「明朝
」の項目をご覧ください。この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 公用語中国語 明
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2010年5月)
明
大明
(国章)
1580年明国の領域。羈縻地域烏斯蔵(チベット)・奴児干(満州)を除く。
首都南京(1368年-1421年)
北京(1421年-1644年)
皇帝
1368年 - 1398年洪武帝
1627年 - 1644年崇禎帝
人口
1393年65,000,000人
1640年71,000,000人
変遷
元から明へ1368年
李自成の乱により滅亡1644年
1662年まで南明として存続
中国語 明朝
注音符号???????
呉語
ローマ字Min zau
粤語
イェール粤?Mihng chiuh
粤?Ming4 ciu4
?南語
台湾語ローマ字Bing tiau
明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。
朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。
目次
1 歴史
1.1 朱元璋の建国
1.2 領土の拡大
1.3 北虜南倭の危機
1.4 明の衰亡
2 政治
2.1 官制・税制・兵制
2.2 科挙
2.3 王府
3 経済
3.1 農業
3.2 貨幣政策
3.3 専売制
3.4 手工業
4 文化
4.1 思想
4.2 文学
4.3 美術
4.4 科学技術
5 国際関係
5.1 海上交易と倭寇
5.2 北方
5.3 西方・南方
6 明の皇帝
7 明の元号
8 注・出典
9 関連項目
10 外部リンク
歴史
朱元璋の建国 朱元璋 永楽帝 張居正
モンゴルの建てた元朝は、14世紀に入ると帝位の相続争いが起こり、統治能力が低下した。さらに疫災が相次いだため、白蓮教徒が1351年に紅巾の乱を起こすと反乱は瞬く間に広がった。紅巾軍の一方の将領であった貧農出身の朱元璋(太祖・洪武帝)は南京を根拠に長江流域の統一に成功し、1368年に明を建国した。洪武帝は建国するとただちに北伐を始め、順帝(トゴン・テムル・ハーン)は大都(北平)を放棄して北に逃れ、万里の長城以南の中国は明に統一される。江南から誕生した王朝が中国を統一した。
洪武帝は統一を達成すると外征を抑え、農村の検地や人口の調査を進めて里甲制・衛所制を布き、内政の安定に力を注いだ。一方で洪武帝は功臣を粛清し、宰相にあたる中書令を廃止して六部を皇帝に直属させる皇帝独裁体制を築いた(詳細は胡藍の獄を参照)。
1398年洪武帝が崩じて建文帝が即位すると、建文帝の叔父に当たる各地の親王は帝室の安定のために排除されるようになった。北平を中心に北方の防備を担っていた洪武帝の四男燕王は追い詰められ、遂に反乱を起こした。1402年、燕王は首都南京を占領して建文帝から帝位を簒奪し自ら皇帝に即位した(靖難の変)。これが永楽帝である。永楽帝の即位により、政治の中心は再び北平改め北京へと移った(ただしその後も南京に南京六部(中国語版)を置き、副都的な扱いをしていた)。 永楽帝は、北京に遷都し洪武帝の慎重策を改めて盛んに勢力を広げた。北に退いた元朝の余党(北元、明ではこれを韃靼と呼んだ)は1388年にトゴン・テムル・ハーンの王統が断絶していたが、永楽帝は遠征により制圧した。満洲では女真族を服属させて衛所制に組み込むことに成功した。南方ではベトナムを陳朝・胡朝の内乱に乗じて征服した。 さらに海外の東南アジア、インド洋にまで威信を広げるべく鄭和に率いられた大艦隊を派遣し、一部はメッカ、アフリカ東海岸まで達する大遠征の結果、多数の国々に明との朝貢関係を結ばせた。 永楽帝の死後、モンゴルへの遠征、東南アジアへの艦隊派遣は中止され、ベトナムでは征服からわずか20年で黎朝が独立した。しかし永楽帝の子洪熙帝、孫宣徳帝の二代に明は国力が充実し、最盛期と評価される(仁宣の治)。 一方このころ、モンゴル高原では西モンゴルのオイラトが力をつけ、モンゴルを制圧したオイラト族長エセン・ハーンは明へ侵攻してきた。1449年、英宗は側近の宦官王振の薦めでオイラトに親征を行ったが、自ら捕虜となる大敗を喫した(土木の変)。 エセン・ハーンは内紛で殺され危機を免れたが、後に帰還して奪門の変で復位した英宗以来、歴代の皇帝は紫禁城から出ることを好まず、また政治を顧みない皇帝も多く、国勢はしだいに低調となった。また、同時期1448年、小作人ケ茂七
領土の拡大
北虜南倭の危機