昌平黌
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昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)は、1790年寛政2年)、神田湯島[注釈 1]に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設。正式の名称は「学問所」であり「昌平黌」(しょうへいこう)とも称される。
沿革湯島聖堂の「大成殿」(孔子廟)(2010年2月3日撮影)「湯島聖堂」も参照
林家の家塾として

1605年(慶長10年)に林羅山が将軍徳川家康に僧形の学者として出仕した後、1630年(寛永7年)に将軍徳川家光林家上野忍岡の五千余坪の土地と二百両を与えて書院と学寮が建てられ、林家の家塾としたのを起源とする[1]

1632年(寛永9年)に尾張徳川家徳川義直が同地内に聖廟を建立して「先聖堂」の扁額を与え、「先聖殿」と称した[1]1663年(寛文3年)には将軍徳川家綱が林家二代の林鵞峰に「弘文院学士」の号を与えたことから林家塾は「弘文館」(弘文院とも)と称された[1]1690年(元禄3年)に将軍徳川綱吉が神田湯島に六千坪の土地を与えて聖廟を建てて林家塾を移した[1]。綱吉が親書による「大成殿」の扁額を与えたことから、講堂は先聖殿から大成殿に改称された[1]。大成殿及び附属の建物を総称して「聖堂」とし、地名を取って「湯島聖堂」と称され、同地は孔子の生地である「昌平郷」にちなんで「昌平坂」と命名されたため「昌平坂聖堂」とも称された。1691年(元禄4年)、綱吉は林家三代の林信篤(鳳岡)に蓄髪(還俗)を命じ、従五位下に叙して大学頭(唐名は祭酒)の官職に任じた[1]。以後、大学頭の官職は代々林家が世襲して任じられ、聖堂の長の役割も担った。
学問所の設立

1790年(寛政2年)、いわゆる「寛政異学の禁」により幕府の教学政策として朱子学が奨励された。その一環として、聖堂を林家の家塾とする従来の位置づけを改めることとし、1797年(寛政9年)までに「聖堂学規」や職制の制定など制度上の整備を進め、幕府の直轄機関「昌平坂学問所」(昌平黌)を設置した。

1792年(寛政4年)9月に湯島聖堂の仰高門内に講舎が落成すると、旗本や家人を問わず幕臣とその子弟の学問吟味を行うこととされた[1]

1817年(文化14年)には学問奨励のため17歳から19歳までの者に対して毎年素読吟味を行うこととされた[1]。昌平坂学問所の教師は林門に限られていたが、やがて林門以外の儒者による講義も行われるようになった[1]。外部から招聘された者に尾藤二洲古賀精里がいる。また、聴講入門も幕臣に限られなくなり、陪臣・浪人・町人にも許可された[1]。.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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維新期の「昌平学校」

昌平黌は幕末期においては洋学の開成所、医学(西洋医学)の医学所と並び称される規模の教学機関であったが、維新期の混乱に際して一時閉鎖、その後新政府に接収され1868年8月17日慶応4年6月29日)には官立の「昌平学校」として再出発した。しかしこの昌平学校は従来のような儒学・漢学中心の教育機関でなく、皇学(国学・神道)を上位に置き儒学を従とする機関として位置づけられていたため、旧皇学所出身の国学教官と昌平黌以来の儒学派との対立がくすぶり、特に昌平学校が、高等教育および学校行政を担当する「大学校」(のち「大学」)の中枢として位置づけられて以降、儒学派・国学派の主導権争いはますます激化したため、「大学本校」と改称されていた昌平学校は1870年8月8日(明治3年7月12日)当分休校となり、そのまま廃止された。このため、幕府の開成所・医学所の流れをくむ東京開成学校東京医学校東京大学の直接の前身となったのと異なり、昌平黌以来の漢学の系統は、東京大学の発足に際し(「源流」としての位置づけはなされているものの)間接的・限定的な影響力しか持ち得なかったのである。
廃止後の経緯
湯島界隈での学校開設

昌平学校廃止後、学制公布以前に維新政府は小学→中学→大学の規則を公示し、そのモデルとして1870年(明治3年)、太政官布告により東京府中学がこの地を仮校舎として設置された[注釈 2]


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