昌平橋
上流側左岸より(2008年8月)
基本情報
国 日本
所在地東京都千代田区
交差物件神田川
設計者
施工者東京市土木課技手・小池啓吉(設計)
建設1922年-1923年4月(新造時)
1928年1月-1928年12月(改修第一期)
1929年11月-1930年2月(改修第二期)
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分54秒 東経139度46分08秒 / 北緯35.69833度 東経139.76889度 / 35.69833; 139.76889
昌平橋(しょうへいばし)は、東京都千代田区にある、神田川に架かる橋の一つ。外堀通り上にあり、上流側・下流側に歩行者用の橋(人道橋)が併設されている。 駿河台下および外神田の神田川に架橋の中で古くから存在する橋が「昌平橋」である。橋の北は千代田区外神田一丁目・同二丁目、南は千代田区神田淡路町二丁目・神田須田町一丁目で、北側の総武本線松住町架道橋・南側の中央本線昌平橋架道橋(昌平橋ガード)に挟まれた場所にある。秋葉原電気街の南西端に位置し、上流には聖橋と総武本線神田川橋梁、下流には万世橋が架かる。また、橋の北西側には「昌平橋西橋詰広場」が[1]、北東側には「昌平橋東橋詰広場」が[2]それぞれ設けられている。 昌平橋は現在の中山道のルートに含まれている架橋である[3]。かつて昌平橋の数十メートル下流に存在した中山道の「筋違橋」は、昌平橋や筋違橋の架け替え、橋の名称変更により廃止されたため、実質的に「昌平橋」が中山道の橋となっている。 2007年(平成19年)3月28日に千代田区景観まちづくり重要物件に指定されている[4]。 この地に最初に橋が架設されたのは寛永年間(1624年 - 1645年)と伝えられており、橋の南西にある淡路坂の坂上に一口稲荷社(いもあらいいなりしゃ、現在の太田姫稲荷神社)があったことから「一口橋」や「芋洗橋」(いずれも「いもあらいばし」と読む)と称した。また『新板江戸大絵図』(寛文五枚図)[5]には「あたらし橋(新し橋)」、元禄初期の江戸図には「相生橋」とも記されている。1691年(元禄4年)に徳川綱吉が孔子廟である湯島聖堂を建設した際、孔子生誕地である魯国の昌平郷にちなんで、同年2月2日(1691年3月1日)に「昌平橋」と命名された[6][7]。 江戸時代には水害で度々流されており、1728年(享保13年)8月30日夜から9月2、3日にかけての大洪水で昌平橋、和泉橋、柳原新し橋(現在の美倉橋)、柳橋が2日夕方に流失[8]、1749年(寛延2年)8月13日にも昌平橋、筋違橋(すじかいばし)など神田川の橋々が流失し[9]、その度に架設されている。また、明暦の大火の後、昌平橋から筋違御門にかけて「八ツ小路」「八辻ヶ原」と呼ばれる火除地が設けられたが、1846年(弘化3年)1月の大火で昌平橋が焼け落ち、同年閏5月24日に新たに普請された[10]。
概要
橋の概要
橋梁形式:RC固定充腹式アーチ橋
橋床形式:鉄筋コンクリート
供用開始:1923年(大正12年)4月
延長:23.770 m
幅員:7.0 m(西側人道専用橋)+19.38 m(自動車専用橋)+7.19 m(東側人道専用橋)
支間長:70尺(約21.21 m)
所在地:東京都千代田区神田淡路町二丁目・神田須田町一丁目 - 外神田一丁目・同二丁目
建設当時は東京府東京市神田区淡路町二丁目 - 旅籠町
総工費:176,386円(人道橋、現在の自動車専用道部分の工費)
歴史下流の万世橋より(2008年8月)明治初期の昌平橋。写真左が南岸解体中の元萬世橋(手前)と昌平橋(左奥)。1906年(明治39年)撮影