旺文社
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地図発行出版社の「昭文社」とは異なります。

株式会社旺文社
Obunsha Co.,Ltd.
旺文社
種類株式会社
市場情報非上場
本社所在地 日本
162-8680
東京都新宿区横寺町55
設立1931年10月1日(創業)
業種情報・通信業
法人番号5011101026036
事業内容書籍・雑誌の企画・編集及び販売促進ほか
代表者代表取締役社長 粂川秀樹
資本金3億円
従業員数185名(2022年1月1日現在)
関係する人物赤尾好夫(創業者)、赤尾一夫(元代表取締役社長、元フジテレビ役員)、赤尾文夫(前代表取締役社長・代表取締役会長)
外部リンクwww.obunsha.co.jp
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株式会社旺文社(おうぶんしゃ、Obunsha Co., Ltd.)は、1931年昭和6年)に創業した教育専門の出版社
概要

欧文社の名前で創業した当時から、『受験旬報』や、英語の問題集などの教育を主とした出版を手掛ける。

かつては学習研究社と双璧をなしていたが、少子化と受験環境の大きな変化に抗し得ず経営が悪化し、全国拠点の整理や、子会社株の売却等のリストラを実施した。その結果、数年間続いた赤字から脱却し経営再建に成功。新規事業の開拓と利益構造のさらなる改善をめざし、旺文社株の一部の売却を行い、売却先である三菱商事の協力を受けた。現在、三菱商事との提携は解消されている。

入試関連の雑誌書籍の出版で有名だが、出版の他に生徒向けのテスト事業や各種資格検定事業も手がけている。かつては、『中一時代』?『高二時代』といった、中高生向けの学年別雑誌も発行していたが、1991年に廃刊。現在、月刊誌は『螢雪時代』のみが出版されている。また、かつては、文化放送ラジオたんぱ(現・ラジオNIKKEI)で放送された『大学受験ラジオ講座』→『Jランド』→『アルシェクラブ ITEMAEラジオ』などの提供会社でもあったが、番組自体は1996年3月に終了している。

あまり知られてはいないが、COMIC SEMINARという漫画レーベルやファミリーコンピュータのゲームソフト攻略本(FC必勝作戦メチャガイド・シリーズ)を刊行していたこともある。

最近はEラーニングを中心とするインターネット事業や幼児向け事業の拡大に力を入れている。
歴史
戦前

1931年(昭和6年)、赤尾好夫が東京・新宿で旧制高校受験生を対象にした学習参考書を発行するため、歐文社の社名で事業を開始したのが当社の創業である[1]。翌1932年(昭和7年)、通信添削会を立ち上げ、機関誌『受験旬報』(現・『蛍雪時代』)を創刊する。詳細は「螢雪時代#『受験旬報』期」を参照

1940年(昭和15年)、受験旬報は月3回の発行が難しくなり、月刊に変更される。翌1941年(昭和16年)、正式に『蛍雪時代』と改題した。その翌年1942年(昭和17年)には、欧文社の「欧」の字を敵性語とみなした軍部の圧力で社名を現在まで続く旺文社に変更した。この頃、赤尾が自ら著者となった『英語基本単語熟語集』(通称『赤尾の豆単』)が刊行され、現在でも重版され続けるロングセラーとなった。
戦後

旺文社は戦後すぐに活動を再開し、『蛍雪時代』や『精講シリーズ』などを発行した。

1947年(昭和22年)、『蛍雪時代』は学制改革に対応、新制高校の全学年を対象とする大学受験総合誌へと生まれ変わった。

1949年(昭和24年)には、『蛍雪』の姉妹誌として新制中学校の全学年を対象にした『中学時代』が創刊。旺文社はビジネスの幅を中学生にも広げた。一方、小学館が『中学生の友』、設立間もなかった学習研究社は『中学コース』で対抗、激しい販売競争が繰り広げられる。

1950年(昭和25年)、それまでNHKが独占していた放送事業が民間にも開放されることが決まる。旺文社は民放の公共性重視という世論を利用して、放送事業に積極的に進出。首都圏AMラジオ第2局日本文化放送協会(NCB、現・文化放送)の設立に関わった。この時、赤尾が自らNCBに持ち込んだ企画が、『大学受験ラジオ講座』であった。1952年(昭和27年)3月31日、NCBは開局し、同時にラジオ講座の放送が始まった。旺文社はラジオ講座のテキストを発行し、『蛍雪時代』と合わせて受験生のフォローアップをする体制を整えた。

1955年(昭和30年)には、大学受験を希望する高校生に現在の実力や志望校合格の可能性といったデータを提供するため学校単位で行わせる国内初の集団模試、『大学入試模擬試験』(後の旺文社模試)がスタートする。当時はまだ競合相手となる『進研模試』(福武書店。現・ベネッセコーポレーション)がなく、後に『全統模試』を手掛ける予備校最大手の河合塾名古屋市内にしか拠点のないローカル事業者だったため、旺文社模試は生徒や学校の信頼を集めた。

1956年(昭和31年)、『中学時代』『高校時代』が学年別に細分化される。これにより、『蛍雪』は高校3年生と浪人生を対象にした受験に直結する雑誌へと変化した。これを見た小学館と学研も学年別編集に移行するが旺文社は一歩リードしていた。NETテレビのロゴ
(1960年-1977年)

1957年(昭和32年)、外郭団体として日本英語教育協会(現・日本英語検定協会通信教育部)が設立される。赤尾は大学受験ラジオ講座に続いて、広く一般に向けた放送メディアによる英語教育の可能性を探っていて、『百万人の英語』の企画をNCBの後継となった文化放送に持ち込んだ。英教はこの番組を実現するため、旺文社が中心となって設立されたものである。またこの年、日本経済新聞東映などと共同出資で、教育専門局であるテレビ局日本教育テレビを設立、1959年(昭和34年)、放送を開始した。同局は翌1960年(昭和35年)には、"NETテレビ"に呼称を変え、1973年(昭和48年)総合放送局に移行。1977年(昭和52年)、朝日新聞社の傘下に入ったことから正式社名を全国朝日放送(ANB)、通称テレビ朝日と改めた。

1963年(昭和38年)、英教に続く2つ目の外郭団体として日本英語検定協会が設立され、実用英語技能検定が開始された。旺文社は現在に至るまで英検の様々な問題集や受験参考書を販売し、全盛期を迎えた。同年、小学館は『中学生の友』を廃刊。女子向けの『女学生の友』(後の『プチセブン』→『Pretty Style』)に集中することになった。「小学館の学年別学習雑誌#中高生向け」も参照
昭和後期

折しもこの頃は、団塊世代が大学進学を控えており、旺文社の高校生向け参考書は飛ぶように売れた。1968年(昭和43年)には、英検が旧文部省(現文部科学省)の認定を獲得。英検受験参考書がビジネスの柱に成長、大学生や社会人など幅広い層へ急速に浸透した。

しかし、旺文社は戦前に手掛けた通信添削から一時撤退していたため、この頃になると後発他社に押され始めるようになる。1961年(昭和36年)に増進会出版社が対象を難関大学受験生に絞り込んだ『Z会の通信添削』を立ち上げ、1969年(昭和44年)、福武書店が『進研ゼミ』で追随。これを見た旺文社も通信添削に再参入、『旺文社ゼミ』をスタートさせた。

1972年(昭和47年)には、河合塾が『全統模試』をスタートさせ、旺文社模試の市場独占が崩れる。これをきっかけに予備校模試の競争が激化(代ゼミ模試駿台模試など)。その一方で福武書店も『進研模試』を立ち上げて旺文社の得意としていた学校集団模試に参入、旺文社模試は一気にシェアを落としていった。「模擬試験#大学入試の模試」および「全統模試#沿革」も参照

1976年(昭和51年)頃からは、中高生向けとは逆に小学館と学研が市場を寡占していた小学生向け学年別学習誌に参入しようとする。しかし、人気漫画の『ドラえもん』を持っていた小学館と、『科学と学習』で売り上げのピークを迎えようとしていた学研の牙城を切り崩すことができず、手懸けた高学年向けの3誌が軒並み2年以内に休廃刊。旺文社の試みは失敗に終わった。「小学館の学年別学習雑誌#競合誌」および「科学と学習#学習雑誌 『科学』・『学習』」も参照

1985年(昭和60年)、創業者の赤尾好夫が亡くなり、子息の赤尾一夫が第2代社長として旺文社を継いだ。
平成初期

昭和末期から平成にかけては、第2次ベビーブーム世代の大学進学が控えており、旺文社の参考書売り上げは一時持ち直した。


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