旭(あさひ)は、広島県広島市南区に所在する地区の名称である。ここでは同区において「旭」を町名に含む各町の総称として用いる。「旭町」( - まち)は旧称。 広島県を流れる太田川の三角州上、猿猴川と京橋川に挟まれた州の内陸部に位置する。 黄金山の西麓、国道2号および広島県道86号翠町仁保線(黄金山通り)によって挟まれた地域に位置する。かつては旧国鉄宇品線(現在は車道として整備)によって町内が縦断されていた。地区のほとんどは宅地である。古くからの漁師町であった大河地区 「朝日(旭)のごとく繁栄する町」の意がある[1]。 江戸初期、広島湾頭の遠浅の干潟に過ぎなかったこの地区は、1662年(寛文2年)から翌1663年にかけて行われた仁保島西新開の造成により、近隣の皆実町・出汐・翠などとともに新たな埋め立て地となった。仁保島西新開はのち「皆実新開」と改称され、明治維新後には皆実村、1889年(明治22年)の広島市制施行後は同市の(大字)皆実に属することとなった。日清戦争開戦とともに軍港である宇品港への軍事輸送のためにこの地区を縦断して国鉄宇品線が敷設された。昭和期に入って1932年、地区内(現・西旭町「ポッポ広場」)に宇品線唯一の行き違い駅として下大河駅が開業した。そして、それまで皆実町(1916年に改称)の東半部(当時は「東下組」[2])であったこの地区は、1933年になって初めて「旭町」として分立した。1945年8月6日の原爆投下に際して、爆心地から3km前後の位置にあったこの地域は、半壊地域とされているものの被害は比較的小さかった。 蔬菜・麦・レンコンなどが栽培される近郊農業地域であった町は戦後、次第に宅地化が進行し、一時は下大河駅が近隣の学校に通学する学生の乗降でにぎわっていた。1970年には宇品線以東の地区を旭1?3丁目に再編し、1980年には残りの地区を西旭町に改称、町名としての旭町は消滅した。また1960年代に入って利用者を減らしていた宇品線は、1966年平面交差する新広島バイパス(現・国道2号)の開通により致命的な影響を受け、同年末、一般旅客営業停止にともない下大河駅も廃止された(路線自体はその後も貨物線として1986年まで存続した)。また、現在の旭3丁目地区の南半部(広島南警察署前交差点から大河保育園の南側まで)は、戦後に至るまで広島湾への入江が深く切り込み、付近の児童の水遊びの場などとして利用されていたが、1964年に南側の宇品東に工場用地が埋め立てられたのち、1967年にはこの入江も埋め立てられて細い水路となり、その後1980年に下水道整備事業により水路も暗渠化された。1986年の廃止後しばらく廃線跡が放置されていた旧宇品線は、1990年代後半には線路などの施設が完全に撤去され、国道2号(出汐2丁目北東角交差点)と黄金山通り(広島南警察署前交差点)を結ぶ車道として生まれ変わっている。その一方、旧宇品線の沿線に発達した旭町商店街など、古くからの下町の雰囲気を残す街並みも健在である。
概要
地理
地誌
住居表示
旭1?3丁目
西旭町(にしあさひまち)
隣接している地区・山城町。
歴史広島の新開地発展図(『概観広島市史』1955年) / 現在の「旭」地区を含む皆実新開が宝暦3年(1753年)以前の開発であり、広島築城時にはこの地区が海であったことが示されている。1945年の米軍作成の地図 / "ASAHIMACHI"(旭町)や"?k? Grade School"(大河小学校)などが確認できる。"TANNABASHI"(丹那橋)北側の英橋の位置も示されている。「皆実町 (広島市)#歴史」も参照
地名の由来
沿革
江戸時代から戦前期まで
戦後から現在まで
年表
1662年(寛文2年)?1663年:仁保島西新開として造成される(のち「皆実新開」と改称)。
1882年(明治15年):皆実新開を皆実村と改称。
1894年:国鉄宇品線の敷設。
1889年:市制施行により広島市大字皆実に属する。
1916年(大正5年):(大字)皆実を皆実町と改称。この地区は「東下組」と称された。
1932年(昭和7年):宇品線下大河駅を開業(現・西旭町)。
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