旭鷲山昇
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モンゴル政治家旭鷲山昇ダヴァー・バトバヤル
Даваагийн Батбаяр
生年月日 (1973-03-08) 1973年3月8日(51歳)
出生地 モンゴルウランバートル
出身校早稲田大学人間科学部
前職力士
実業家
所属政党民主党
称号ウランバートル名誉市民
国民大会議議員
当選回数1回
在任期間2008年 - 2012年
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旭鷲山 昇


基礎情報
四股名旭鷲山 昇
本名ダヴァー・バトバヤル
愛称シュウ、「技のデパート・モンゴル支店」
生年月日 (1973-03-08) 1973年3月8日(51歳)
出身 モンゴルウランバートル市
身長182cm
体重146kg
BMI44.08
所属部屋大島部屋
得意技右四つ、上手投げ、足癖、外無双、小股掬い[1]
成績
現在の番付引退
最高位西小結
生涯戦歴560勝601敗2休(89場所)
幕内戦歴408勝507敗2休(62場所)
優勝十両優勝2回
幕下優勝1回
殊勲賞1回
敢闘賞2回
技能賞2回
データ
初土俵1992年3月場所[1]
入幕1996年9月場所[1]
引退2006年11月場所
引退後政治家
他の活動実業家
趣味スノーボード
備考
金星5個(1個、若乃花2個、武蔵丸1個、朝青龍1個)
2013年1月2日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

旭鷲山 昇(きょくしゅうざん のぼる、1973年3月8日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で大島部屋所属の元大相撲力士、実業家、モンゴル国の政治家。本名はダヴァー・バトバヤル(モンゴル語キリル文字表記:Даваагийн Батбаяр、ラテン文字転写:Davaagiin Batbayar)。最高位は西小結、身長182cm、体重146kg。得意技は右四つ、上手投げ血液型はB型、趣味はスノーボード、愛称は「シュウ」。史上初のモンゴル出身関取[1]
来歴
初のモンゴル出身力士としての入門

1991年に大島(元大関旭國斗雄)がモンゴルで行った新弟子公募に応募し、170人の応募者の中から旭天鵬旭天山らととも選ばれ初のモンゴル出身力士として来日し、1992年3月場所で初土俵を踏んだ。入門当初は稽古の厳しさや日本の生活習慣に馴染めず、共に来日したモンゴル人力士6名のうち旭天山を除く5名が部屋を脱走して駐日モンゴル大使館に駆け込むという出来事を起こした。しかし、大使館まで迎えに来た大島夫妻及び旭天山に説得されて再び部屋へと戻った。

旭鷲山はモンゴル出身の大相撲力士の先駆者であり、多くのモンゴル人を各相撲部屋に紹介し入門させた。後述のように早稲田大学に入学しここで様々な示唆を受けたことによりベテランの域に入ってなお成長を見せた。モンゴル人力士同士の交流にも重要な橋渡し役として貢献してきた[2][3][4]

モンゴルの子供の育英や貧しい人への援助を名目に「旭鷲山発展基金」を設立し、寄付を集めて各種の援助で国民に奉仕したことにより、母国では英雄として朝青龍を凌ぐ人気があるとも言われる。ウランバートル市議会議長からは、ウランバートル名誉市民の称号が贈られている。
技のデパート・モンゴル支店

当初大島は「もう1人だけついでに」というつもりで旭鷲山を採用したに過ぎなかったが、その時の予想に反して1995年3月場所で新十両に昇進し、1996年9月場所で新入幕を果たした。幕内に上がると多彩な技で観客を沸かし、「技のデパート・モンゴル支店」(“本店”は舞の海)と評された[1]。幕内2場所目、横綱貴乃花の休場により初日と2日目の割返しが行われた際に以前から対戦を望んでいた小錦[5]との割が2日目に実現、これに勝利した。新入幕から所要3場所で小結に昇進したが、新三役となった1997年3月場所で4勝11敗と大きく負け越して以来一度も三役に復帰することは無く、引退場所となった2006年11月場所まで58場所連続平幕在位の史上1位の記録を持つ。1997年3月場所も2勝13敗だったが、初日に横綱から初金星を挙げている。

2001年1月場所、新決まり手である送り吊り落としで勝った第1号力士。2002年1月場所、新決まり手である送り引き落としで勝った第1号力士。その他、1997年3月場所は小股すくい・足取りと1場所で2回もあり、さらに1998年5月場所は珍しい決まり手で勝った星が、外無双・掛け投げ・渡し込みと3番もあった。2000年1月場所は外小股、2002年1月場所は内無双、2003年3月場所は波離間投げ、などで勝った取り組みもあった。

1999年3月場所、若乃花に勝ち2個目の金星。2001年5月場所、後輩の朝青龍に抜かれた事が刺激になり11勝。2002年1月場所、武蔵丸にひっかけで勝ち金星。2002年5月場所、初日から8連勝し10勝で技能賞、初日から8連勝した決まり手が全て違うのは北の富士以来32年ぶり。2003年5月場所、朝青龍に勝ち5個目の金星。2004年9月場所、2度目の初日から8連勝し11勝。2005年5月場所、中盤8連勝で12勝し初の敢闘賞。2005年7月場所、栃東に小股すくいで勝った。2006年3月場所、11勝し5回目の三賞、などなど活躍した。

新入幕から一度も十両に陥落せず地力があったことは間違いないが、歳を重ねるにつれ立合い諸手を突いての逃げ回るような攻めが目立つようになった。十両陥落が見える地位になると二桁の大勝ちを見せて一気に番付を上げ、上位で大負けした後は僅かな負け越しを続け少しずつ番付を下げていくパターンの繰り返しが多かった。技が連続しないことや寄り身を試しても力強さが無い事から三役定着には至らなかった。

長く幕内に留まっていられた理由として、立合いでは激しく当たらず、敢えて相手に踏み込ませそこから形を作っていく相撲を取ることにより、激しい衝撃を避けることで肉体の消耗を免れていると、相撲解説者である舞の海は指摘している。初土俵以来の決まり手数は45を数えるとされ、大相撲界にそれまで無かったモンゴル相撲を持ち込み、2000年に新たに15の決まり手が追加された一因となった。稽古量も現役当時の力士としては出色で、巡業地では1日に50番以上もの稽古をこなすこともあった[6]。一方で「旭鷲山はただ体を動かしているだけ。あれだけ足腰がいいのだから、前に出る相撲を心掛けていれば、少なくとも大関にはなっていた」と指摘する親方もいた[6]

なお「技のデパート・本店」である舞の海との取組も数度実現している。この中には1分を超える取組も見られ、「大相撲」と言われたこともある。
朝青龍との確執

2003年7月場所、モンゴルの後輩でもある横綱の朝青龍との一番で、朝青龍が旭鷲山の髷を掴み反則(7年ぶりの反則勝ち)で勝ち星を得たが、協会は金星と認めないことを発表した[7]。旭鷲山と朝青龍の両者は取組後の風呂場でも激しい口論となり、居合わせた大関の魁皇が割って入って止めたという。怒りが収まらなかった朝青龍は、旭鷲山の車のサイドミラーを壊して弁償する騒動にまで発展した。なお、両者は2003年5月場所の対戦でも土俵際で逆転負けした朝青龍が物言いを要求する態度を見せ、物議を醸した。この時には大々的に確執が伝えられたが、後に報道陣の前で和解した。
大学進学

2004年、早稲田大学に入学し、人間科学部人間情報科学科の通信教育課程にて学び始めた。早大を志望した理由は、モンゴルの大統領・ナツァギーン・バガバンディ外務大臣小渕恵三の会談に同席した際、バガバンディが「相撲をやめたら何をする? せっかく恵まれた環境にいるんだから、勉強した方がいい」[8]と述べたところ、小渕が「それなら早稲田でしょう」[8]と勧めたことがきっかけであった。


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