旭里憲治
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旭里 憲治

基礎情報
四股名旭里 憲治
本名増田 憲治
生年月日 (1965-11-09)
1965年11月9日(58歳)
出身大阪府池田市
身長187cm
体重140kg
BMI40.04
所属部屋大島部屋
得意技右四つ、寄り、上手投げ
成績
現在の番付引退
最高位東前頭14枚目(1990年7月場所)
生涯戦歴553勝543敗3休(102場所)
幕内戦歴21勝39敗(4場所)
優勝幕下優勝1回
序二段優勝1回
データ
初土俵1981年3月場所
入幕1990年3月場所
引退1998年1月場所
引退後年寄・熊ヶ谷中川
備考
2013年7月4日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

旭里 憲治(あさひさと けんじ、1965年11月9日 - )は大阪府池田市出身で大島部屋に所属した元大相撲力士。本名は増田 憲治(ますだ けんじ)。身長187cm、体重140kg。得意手は右四つ、寄り、上手投げ[1]。趣味は睡眠、カラオケ、野球。最高位は東前頭14枚目(1990年7月場所)。

現在は、年寄中川。元中川部屋師匠。
来歴

小学校4年生から中学校1年生までは野球をやっており、4・5年生の時はエースだった。中学2年からは柔道部に所属。その頃から力士を志し、3月場所が開催される大阪府立体育会館の関係者から大島部屋を紹介された。池田市立池田中学校卒業と同時に大島部屋に入門。1981年3月場所で初土俵を踏んだ。翌年9月場所では序二段で優勝し、均整の取れた体格で三段目の頃から注目されていた。立合いについて行けず、幕下で苦労した時期も長かったが、1989年1月場所で新十両に昇進。平成時代初の関取となった。

そして、1990年3月場所では新入幕を果たした。同場所では7勝8敗で惜しくも負け越したが、本人は引退時の思い出の取組として敗れはしたものの、この場所の千秋楽、7勝7敗で迎えた小城ノ花との取組を挙げている。同年7月場所で再入幕。立合い突っ張ってから左上手を取るといった正攻法の取り口で期待されたが、怪我もあり幕内には4場所在位したが、勝ち越すことはできなかった。妻とは1992年の熊本巡業で食事に訪れた店で偶然出会い、それが縁となって1993年1月に結婚[1]1994年5月場所では4度目の入幕を果たした。同年5月場所と7月場所とともに大敗が続き、9月場所では幕下まで陥落してしまった。

一時は引退も考えていたが、師匠・2代大島(元大関旭國)や、後援会、家族に励まされ現役続行を決意。1995年3月場所では、西幕下14枚目の地位で7戦全勝して幕下優勝を果たし、翌5月場所で十両に復帰した。その後、長男が生まれた。以降は幕下に陥落することもあったが、十両で相撲を取り続けることが多かった。1998年1月場所では西十両4枚目に在って5勝10敗と負け越し、幕下に陥落するような成績でもなかったが、同場所千秋楽の一番を最後に現役を引退した。

引退後は14代熊ヶ谷を襲名し、大島部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たり、1998年10月に引退相撲を執り行った。当初は12代・熊ヶ谷(元前頭8・芳野嶺)から年寄名跡を借りていたが、1999年に名跡を取得した。しかし2004年7月、十両・金親が先代宮城野親方の娘と結婚し娘婿となり、引退して11代宮城野を襲名。このとき、10代宮城野(元前頭13・竹葉山)が急遽熊ヶ谷を工面して名跡変更したことから、実は熊ヶ谷が借株であったことが判明した。そのため、11代追手風(元前頭2・大翔山)から年寄名跡・中川を譲り受け、以来、追手風部屋の部屋付き親方として、後進を指導していた。引退から10年以上に渡って大阪場所担当委員として故郷の場所を盛り上げた[1]

2016年10月19日に同じ一門の春日山部屋が、師匠の21代春日山(元前頭11・濱錦)の年寄名跡の襲名資格が決着するまで一時閉鎖、所属力士らが追手風部屋へ転属した。受け入れスペースの都合で追手風部屋施設で受け入れることはできなかったため、春日山部屋が2015年9月まで使用していた部屋施設に15代中川が師匠代行として出向く形で指導に当たった[2]

その後、2017年1月16日に21代春日山が日本相撲協会を退職したため、26日の協会理事会で15代中川の部屋継承が承認され[3][4]、15代中川は再興された中川部屋の師匠になった。部屋を継承した背景には、20代春日山が自分にとって一門の同期生という大切な仲間であったという事情があり、15代中川は「祥紀の部屋じゃなかったら引き受け手はいなかったと思う」と話している[1]

2020年7月、弟子への暴言・暴力行為により中川部屋の師匠を解任され、時津風部屋の部屋付きとなった。2021年7月からは、同月に設置された相撲協会の安全管理委員会委員を時津風一門の代表として務めている[5]
エピソード

場内放送や大相撲中継などで「あさひざと」とよく四股名の読みを間違えられた。旭里本人は『「あさひさと」は読みにくいから「あさひざと」でもいいですよ』と言って黙認していたという。

漫画家の
やくみつるは、四股名の読みについてテレビ朝日アナウンサー(当時)で大相撲ダイジェストを担当していた山崎正に確認を取った上で、「四股名も中途半端だから肝心の相撲も中途半端なんだ」と旭里を皮肉った四コマ漫画を描いている。

怪物と呼ばれた武双山と十両で2回対戦して旭里の2戦2勝だった。

十両時代の平成5年7月場所、初日から7連勝しながらも8日目から7連敗してしまい、千秋楽にやっと勝ち越したことがあるが、奇しくもそれから4年後、最後に十両昇進を果たした平成9年7月場所、初日から7連勝、翌日初黒星を喫した時は、本人も「前回もこの時も同じ7月場所だったので7連敗して、千秋楽を迎えた悪夢が一瞬、頭を過った」としているが、翌日には勝ち越しを決めて立ち直り、その後、2連敗を喫したものの、最終的には10勝5敗の成績を上げている。

兄弟子だった旭富士横綱時代、現役中の旭里は一度も幕内の地位におらず、横綱旭富士の太刀持ち露払いの経験は無いままだった。しかし、旭富士の引退相撲が行われる前の1992年9月場所、旭里は当時2度目の再入幕を果たしており、なおかつ横綱空位の時期だったため、同年9月場所後に行われた旭富士の最後の横綱土俵入りには、旭里が晴れて一度だけの露払いを務めることとなった(太刀持ちは旭道山)。

追手風部屋付き時代は朝稽古が終わると真っ直ぐに自宅へ帰っており、本人曰く「へタレで出不精」であったという[1]

部屋継承後の2018年の記事によると高校生の長女は「お兄ちゃんたちがたくさん増えたみたいですごく楽しい」と話しており、中学生の次女は「お相撲さんたちの作るちゃんこがおいしくて」とあっけらかんに喜びを語っている。2018年4月から大学を卒業してIT系の企業への就職が決定した長男は「いずれ、中川部屋のホームページなども自分で作れたらいいと思います」とコメントを残している[1]

蔵前国技館の土俵に上がった元力士の年寄で最も遅く相撲部屋の師匠になった。

弟子への暴言・暴力行為

2020年7月10日、行き過ぎた指導があったとして日本相撲協会が退職勧告以上の処分を検討していると報じられた。

6月の部屋での稽古中に暴言などのパワハラがあり、その様子を録音していた力士が協会に訴えたという。相撲協会コンプライアンス委員会(青沼隆之委員長=元名古屋高検検事長)が調査したところ、3人の力士たちに殴る蹴るなどの日常的な暴力や差別的な暴言を繰り返していたことが分かった。ちゃんこを運ぶ弟子を注意した際に顔面を殴打する、宿舎の荷物を転送する手配に不手際があったと背中を蹴る[6]、「(浴衣の)帯の結び方が汚い」と頭部を殴る、正座させて説教中の弟子の腹を蹴るなどの暴力があり、さらに日常的に「殺すぞ」「ボンクラ」などと不適切な発言を繰り返していたという。15代中川は協会に退職願を提出していたが、調査の途中であることから預かりとなった。

7月13日の臨時理事会で、15代中川は委員から平年寄へ2階級降格処分、中川部屋の閉鎖が決定した。15代中川は時津風部屋付きとなった。解雇などの厳罰が避けられたのは、本人が深く反省し、弟子も処分の軽減を求めていたためであったという。パワハラ問題を受けて審判部を外れて指導普及部に異動した。巡業部・指導普及部の13代枝川が後任として審判部も兼ねることとなった。

処分決定後に週刊文春が力士が録音していた音声データを入手し、オンライン上で公開しており、弟子を「障害者」呼ばわりするなどのその内容から「処分が軽すぎる」と批判の声が上がった[7]週刊新潮は、稽古の指示や食事、LINEでのやりとりの際などに弟子を蔑称で呼んでおり、さらに相撲協会が2019新型コロナウイルス感染拡大への懸念から各部屋にタニマチとの会食などを控えるよう通達していたにもかかわらず、それを無視して2020年3月場所中に大阪場所宿舎で連日ちゃんこ会を開き、売り上げを懐に入れていたと報じている[8]


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