旭日旗
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大日本帝国陸軍軍旗「十六条旭日旗」

旭日旗(きょくじつき)は、太陽および太陽光(旭光)を意匠化した。光線(光条)が22.5で開く16条のもの(十六条旭日旗)がよく知られている。他にも4条・8条・12条・24条など光線の本数が多彩に渡るものが存在している。日本では大漁旗や出産・節句の祝い旗等の日常生活の場面で使われる[1][2][3][4]。古くよりハレを意味する縁起物であり日本の伝統的な旗である。明治維新以降は軍旗としても用いられるようになった。
概要『福神江の嶋もうて』(芳幾、1869年)。恵比寿大黒が千両箱を背負った馬をつれて江の島を訪れる。周りには小判、江の島後景からは旭日が昇る「目出度さ」を表す構図。.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}肥後菊池氏の「八つ日足紋」龍造寺氏筑後の草野氏の「十二日足紋」1894年日清戦争における牙山の戦いの戦勝凱旋の祝典を描いた錦絵『日本帝国陸軍牙山全勝凱旋之図』(楊斎延一画)。中央上部に「旭日旗」たる「軍旗」を配し、「戦勝」という慶事であるため、古くからハレの日の飲料であった日本酒が振舞われ、酒樽には「万国一」の祝い文句とともに「旭日」が描かれている。また、将校を除く兵士達は白の軍服に、束ねた赤の毛布をかけ「紅白」とすることで作者はハレを強調している[注 1]

「旭日」の意匠自体は比較的古くから広く親しまれており、一部は「日足(ひあし)」と呼称され武家の家紋として用されていた(「日足紋」)[5][6]。特に九州地方の武家に好んで使用され、例として、肥前龍造寺氏筑後の草野氏の「十二日足紋」・肥後菊池氏の「八つ日足紋」等がある。九州地方に多いのは肥前・肥後が「日(ヒ)の国」と呼称されていたことと関係があるという説がある[7][注 2]。旭日には古来からいくつもの種類があり、光線が四方八方に雲なく広がる意匠はハレを表現し、慶事などの際にめでたさ・景気の良さを強調するために用いられていた意匠でもあった[3][4]。また、紅白の組み合わせも同じく日本において古くよりハレを意味し、縁起物として多用されていたものであった。その旭日と紅白を意匠とし、日章旗#国旗としての日章旗)を基に白地に太陽光を表す赤系の光線(旭光)を用いたものが「旭日旗」であり、1870年(明治3年)に大日本帝国陸軍の旗章たる「陸軍御国旗(軍旗)」として考案・採用、法令上初めて制定されたものが旭日旗の起源である(#軍旗・軍艦旗としての旭日旗)。これは明治維新日章旗幕府陸軍が軍旗として採用したため、それと敵対した新政府軍の系譜たる陸軍に新たな象徴たる軍旗(=旭日旗)が必要とされたことによる。 遅れて1889年(明治22年)には、大日本帝国海軍においても軍艦旗として旭日旗を採用。

第一次世界大戦時には陸軍の戦闘機国籍標識に旭日の意匠が一時的に採用された。第二次世界大戦後においては、1954年(昭和29年)の自衛隊の発足に伴い陸上自衛隊において「自衛隊旗」、海上自衛隊において「自衛艦旗」として旭日旗が採用されている。旭日旗の小旗を持つ迪宮裕仁親王(幼少期の昭和天皇)、1902年(明治35年)

軍旗に関わらず、明治時代以前から旭日の意匠が表現する「ハレ」・めでたさ・景気の良さにあやかり、民間においても祭、祝事、復興など祈願や企業・商品のロゴ、大漁旗、スポーツの応援に使用されている[8][9][10][11][12][13]。また、政府機関・公的機関においても、勲章や警察章などでも使用されている。四つ巴と旭日旗を組み合わせた意匠の旗

日本において政治団体がデモを行うとき旭日旗をイメージさせる意匠の旗を掲げる光景がみられる[14]。「日章」、「旭日章」、「旭日章 (警察章)」、および「旭日大綬章」も参照

1922年(大正11年)、来日したイギリス王太子エドワード(のちのエドワード8世国王)とその随行員が参加した祝賀会とその余興。会場の背景には旭日旗が掲げられていた

同左

同左

同左

日本軍の軍旗・軍艦旗としての旭日旗「軍旗#軍旗の意匠」も参照
国旗としての日章旗詳細は「日本の国旗」を参照

江戸時代1854年(安政元年)に日本船の船印として幕府に採用された「日章(日の丸)」の幟は、1859年(安政6年)に「日章」の旗(「日章旗」)になり、また事実上の日本の国旗(御国総標)となった。

開国以降、この日章旗は国家体制が一新した維新政府でも変更されず、1870年2月27日(明治3年1月27日)の「明治3年太政官布告第57号」で「御国旗(御國旗)」(=商船旗軍艦旗)とされ、改めて日本の国旗として扱われた。もともと「白地に赤丸(日章)」の意匠は平安時代末期から使用され、また縁起物や旗印・船印として江戸時代当時には広く普及していたものであり、日章旗の意匠自体はこれに由来する。
軍旗・軍艦旗としての旭日旗1894年(明治27年)、日清戦争における平壌の戦いを描いた浮世絵、『平壌攻撃我軍敵塁ヲ抜ク』(水野年方画)に描かれた帝国陸軍の軍旗

1870年4月17日、明治天皇が東京駒場野において薩摩藩長州藩など各藩兵の調練を視察することとなったが、日本の軍隊を表象し兵士の意気を顕揚するためとして陸軍初の聯隊旗が用いられた。この際に用いられたのが16条の光線を描いた旭日旗である[15]


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