旭日丸
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旭日丸
旭日丸を描いた絵(1856年制作)
基本情報
建造所武蔵国水戸藩石川島造船所
運用者幕府海軍
艦歴
起工1854年1月30日
進水1855年
竣工1856年6月頃
その後明治政府の管理を経て民間に売却。
要目
排水量750 トン(推定)[1]
全長23 1 (42.3m)
最大幅5 間 2 尺 (9.7 m)
吃水4 間 (7.3 m)
兵装大砲×24門
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旭日丸(あさひまる)は、江戸時代末期に幕府の命で水戸藩が建造した西洋式帆船である。日本で建造された最初期の西洋式軍艦のひとつであった。幕府海軍で使用され、明治維新後も輸送船として実用された。本船のために開設された石川島造船所は、「千代田形」の建造などを経て発展し、IHIの起源となっている。
建造

水戸藩は、徳川斉昭の指導の下、西洋式軍備の導入において先進的な藩であった。洋式船建造に関しても、蘭学者幡崎鼎、次いでその弟子の鱸半兵衛に研究させ、天保12年(1841年)には「快風丸」の再建名目で、半洋式の大型船建造を企画したことがあった[2]。この計画は幕府から許可が下りなかったが[2]、同年にバッテラ(ポルトガル語版)と呼ばれる小型の洋式船2隻を那珂湊で密造している[要出典]。

嘉永6年6月(1853年7月)の黒船来航で、大型の西洋式軍艦が容易に沿岸まで侵入できたことに脅威を感じた江戸幕府は、海防体制の強化を図るため西洋式軍艦の整備を図ることにした。そして、オランダからの輸入とともに、大船建造禁止令を解除して国産を進めることにした。老中阿部正弘と海防参与の徳川斉昭(前水戸藩主)は、初めは鱸が翻訳するオランダの造船書を基に韮山代官江川英龍に建造させることを計画したが、江川は他任務に忙殺されていたため、鱸に建造を任せることになった[2]。嘉永6年8月8日(1853年9月11日)、鱸に建造の内命が下った[2]

鱸は算術家小幡算衛門、船大工棟梁杢左衛門、指物師金五郎とともに雛形を製作し、それを将軍らが閲覧した後、嘉永6年11月12日(1853年12月12日)に水戸藩に対して「旭日丸」建造の名が下った[2]

水戸藩は鱸と主任とし、建造地を石川島に定めた[2]。嘉永7年1月2日1854年1月30日)、起工式を実施[2]。11月には船体がおおむね完成を見たが、その後の進水で問題が発生した[3]。船体が重かったため進水作業の進みは遅く、一部のみ水上に浮かぶという状態になっていた11月29日に船体が擱座、横転してしまうという事故が発生[4]。その後の船体を起こし、引き出す作業には安政2年1月22日まで要した[5]。この出来事から「厄介丸」と呼ばれることになった[6]。次の問題は、浅い石川島から品川沖へ船体を出すことであった[7]。その際に用いられた手法は廻船と樽を浮として取り付けるというものであった[6]。石川島で立ち往生していたことで、「動かざる御世は動きて動くべき船は動かぬ見と(水戸)も無き哉」という落首が詠まれている[8]。回航は4月14日に実行となり、「旭日丸」は碇を使って進み、20日余りかけて御台場まで出た[9]。その後、横浜に回航されて艤装工事が行われ、着工から約2年半経った1856年6月頃(安政3年5月)に竣工、「旭日丸」と命名された[10]
構造

「旭日丸」の形式は、3本のマスト全てに横帆を持つ三檣シップ型帆船である[10]。純然たる帆船で、蒸気機関は搭載されていない。排水量は750トンと推定され、竣工当時の日本では最大級の軍艦であった[1]

材質は木骨木皮。西洋式に竜骨と1間隔・60組の肋材(まつら)で構成された強固な船体であった[11]。船体の外観は全体が赤くで塗装されていた。船底は生物付着を避けるため板で被覆され、絵図では緑青の色になっている。本船を目撃したオランダ海軍士官ホイセン・ファン・カッテンディーケによれば、薩摩藩建造の「万年丸」よりも良好で美しい設備を持っていたという[12]。武装は、1856年作成の絵図によると舷側には片側12門の砲眼が設けられている。

基本設計はオランダの造船書に基づき、当時の通称でリークと呼ばれたJ. C. Rijk著の“Handleiding tot de Kennis van den Scheepsbouw”(1822年刊)[13] と、水戸藩所蔵の『海舶製作図説』(底本不明)の2冊が主に参考とされた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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