旭富士正也
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旭富士 正也

住吉大社での横綱土俵入りにて
(2017年3月4日)
基礎情報
四股名旭富士 正也
本名杉野森 正也
愛称津軽なまこ[2]
津軽のプリンス[3]
組長
生年月日 (1960-07-06) 1960年7月6日(63歳)
出身 日本青森県西津軽郡木造町
(現つがる市
身長189cm
体重143kg
BMI40.05
所属部屋大島部屋
得意技右四つ、寄り、掬い投げ、出し投げ、肩透かし[1]
成績
現在の番付引退
最高位第63代横綱
生涯戦歴575勝324敗35休(67場所)
幕内戦歴487勝277敗35休(54場所)
優勝幕内最高優勝4回
幕下優勝1回
三段目優勝1回
序ノ口優勝1回
殊勲賞2回
敢闘賞2回
技能賞5回[1]
データ
初土俵1981年1月場所[1]
入幕1983年3月場所[1]
引退1992年1月場所[1]
引退後安治川部屋→伊勢ヶ濱部屋師匠
他の活動日本相撲協会 理事(5期)
2013年1月 - 2017年12月
2020年3月 -2022年12月
備考
金星2個(北の湖1個、双羽黒1個)
2022年12月26日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

旭富士 正也(あさひふじ せいや、1960年昭和35年〉7月6日 - )は、青森県西津軽郡木造町(現在のつがる市)出身で大島部屋に所属した元大相撲力士、第63代横綱平成最初の横綱)。本名は杉野森 正也(すぎのもり せいや)。現役時代の体格は身長189cm、体重143kg。得意技は右四つ、寄り、掬い投げ。現在は年寄伊勢ヶ濱[1]

血液型はB型、趣味は音楽鑑賞、映画鑑賞。特技は手品近畿大学を中途退学して大相撲入門後、現役中に同大学通信教育課程に再度入学し卒業(学位は学士)。
来歴
大島部屋入門まで

木造町立木造中学校、私立五所川原商業高等学校在学中は相撲部に所属。高校生時代に長野県で行われた第33回国民体育大会では、少年の部の団体優勝に貢献した。高校卒業後に相撲の名門である近畿大学大阪府東大阪市)に入学したが、近大相撲部の合宿所での団体生活に馴染めない等の事情により、2年時に相撲部を退部、近畿大学も一旦退学した[4][5]

暫くは故郷の青森に戻り、漁業に従事していた[6] が、その一方で相撲の稽古も一人で続けていた。その光景が大島親方(元大関旭國)の目に止まってスカウトを受ける。一度は断ったものの、その後大島部屋への入門を応諾した。きっかけは、この時点で大島部屋がまだ創設丸1年と歴史の浅い小部屋で、関取が一人も所属していなかったという理由もあると言われている。後年本人が光文社のインタビューで、漁が休みの日におじの薦めで東京見学へ行って相撲部屋を見学したことが角界入りのきっかけと明かしており「大島親方に『ハンコを出せ』と言われ、出したら勝手に使われて入門が済し崩し的に決定した。騙して部屋に置けば何とかなるとでもおじは思っていたのだろう」と入門に至るまでの経緯も詳しく語った。同じインタビューでは、入門時点で自身が20歳と部屋の所属力士最年長であったためやりやすかったとも話していた[6]。シンガーソングライターで相撲甚句も歌う北脇貴士曰く入門当初は役所広司のような風貌であったという[7]

なお、大学中退でありながら大相撲で幕内に上がると近大関係者からはOB扱いされるようになった。それに違和感を感じていた旭富士は、大関昇進後に同大学通信教育部へ入学し直して卒業している。大相撲で近畿大学の出身力士は、先輩に4代朝潮(元大関・元高砂親方)などがいるほか、後輩の誉富士宝富士などは伊勢ヶ濱部屋に入門している。
初土俵?関脇時代

1981年(昭和56年)1月場所初土俵。当時は学生相撲出身であれば実質無条件(体重別選手権に上位入賞する程度)とされていた幕下付出基準を満たす前に中退したため、20歳でありながら前相撲から始めるという当時としては珍しい角界人生の幕開けだった[4]。それは本人も自覚しており「初土俵から1年で十両」と目標を持つことで力士寿命の面で損をしている点を補っていた[6]。師匠の稽古は厳しく、夕方にも朝稽古と同等の稽古を行ったほどである。最大で30人程いた部屋の弟子もその厳しい稽古に耐えかねて次々と廃業したが、青森に帰郷した後も稽古を積んでいた杉野森には苦にならず、むしろ師匠が「いい加減にしろ」というまで、四股鉄砲すり足と延々とやっていた[8]。本名の杉野森で取った前相撲では格の違いを見せ、3月場所は序ノ口優勝。5月場所から四股名を「旭富士」と改めた。これは師匠・大島親方の現役時の四股名・旭國と、入門当時に頭角を現した「昭和の大横綱」第58代横綱千代の富士にちなんで名づけられたという[4]

もっともこれは若名乗りの名で、大島親方やタニマチは幕内に昇進したら大島の現役時代の四股名を継がせ、「旭國」を名乗らせる予定でいたが、タニマチが宴席で「早く幕内に上げて、親方の名前を継がせなきゃ」と切り出した際、本人が「自分の名前を大きくしたいから」と断り、大島親方は憤慨しつつも結局許され、最後まで旭富士で通したという逸話が伝わっている[注 1]

前述の目標より1場所遅れたものの、新十両まで7場所と十二分なスピード出世を果たす。1983年(昭和58年)3月場所新入幕、前頭10枚目で8勝7敗と勝ち越し。ちなみに大乃国(のち第62代横綱)もこの場所新入幕で、後の横綱2人が同時に幕内昇進する場所となった。翌5月場所は初の上位挑戦となる前頭4枚目まで上昇、3日目に当時新大関朝潮と初顔合わせの対戦でいきなり殊勲の星を挙げたが、同場所は結局4勝11敗の負け越しに終わった。関取になっても自分の他に部屋の関取がいなかった時期には高砂部屋井筒部屋に出向くなどして、その柔軟な体を活かした技能を磨いた[8] [注 2]

1983年9月場所13日目の大関・若嶋津戦では前袋を掴まれて寄り切られた挙句、審判がその反則に気付かなかったというハプニングに見舞われた。続く11月場所で小結昇進。新三役の際には入門時と同じように年齢的なハンデを志の高さで補うつもりで「5年で大関」と目標を語った。この時は関取衆から笑われたといい「大学時代の実績が皆無なのに目標だけは高いから、それは笑うはず」と本人も自覚していた[6]。しかし同場所は3日目大関・北天佑を破るも6勝9敗。前頭4枚目の翌1984年(昭和59年)1月場所3日目、第61代横綱・隆の里戦で右足首を捻挫する怪我により途中休場、同年3月場所は幕尻(前頭14枚目)まで降下してしまった。非力ながら前さばきが良く、懐の深さを生かした柔軟な体つきが持ち味で、新入幕当時から将来の大関候補と期待されていたが、当初は三役に定着できず伸び悩んだ。しかし、バーベルトレーニングなど体力面の強化が実り、地力が徐々にアップした。

1984年7月場所で第55代横綱・北の湖を破り初金星。同年11月場所では幕内では初の2ケタ勝ち星の11勝4敗を挙げ初の三賞となる敢闘賞を受賞。1986年(昭和61年)1月場所には新関脇で、それまで一度も勝てなかった千代の富士から初めて白星を挙げるなど、11勝4敗の好成績を挙げ初の殊勲賞を受賞。この年以降2度平幕に落ちた以外は三役に定着。2度目の関脇復帰となった1987年(昭和62年)3月場所で10勝5敗を挙げると以後、10勝5敗、11勝4敗、12勝3敗と安定した成績を収め、同年9月場所後に目標とした大関昇進を決めた(直近3場所合計33勝12敗)[4][1]。幕内から三役時代には技を活かして勝つ相撲が多く、技能賞を5回も受賞した。この間、同門の横綱双羽黒横綱土俵入り時には太刀持ちを務めた。
大関時代

新大関の1987年(昭和62年)11月場所では11勝4敗の成績を挙げ、大関2場所目の1988年(昭和63年)1月場所は初日から13連勝し、14日目に第61代横綱・北勝海に敗れ初黒星を喫したが、千秋楽結びの一番では大の苦手としていた横綱・千代の富士に勝ち、14勝1敗で念願の幕内初優勝を果たした。次の横綱候補に名乗りを挙げ、翌3月場所で初の綱獲りに挑んだが、初日にいきなり苦手の栃乃和歌に敗れ、終盤で共に優勝決定戦進出の横綱大乃国・北勝海に共に敗れて12勝3敗で綱獲りは失敗に終わった。その後も7月場所の11勝以外は全て12勝を挙げる安定ぶりで、自身初の年間最多勝(73勝)を受賞。1988年は年間を通して常に安定した成績を収めていたが、終盤まで優勝争いに加わるもここ一番で敗戦(1988年は5月場所から11月場所にかけて千代の富士が53連勝していて、旭富士は場所最終盤で千代の富士に敗れるパターンが続いた)し、あと一歩で優勝を逃すという場所が続いた。

1989年(平成元年)1月場所では、初日から3場所連続全休明けの北勝海と共に12連勝。13日目に大乃国に敗れついに1敗するも、14日目に最大の難敵・千代の富士を破った。そして千秋楽、一人14戦全勝だった北勝海を寄り倒し、共に14勝1敗同士の優勝決定戦へ進出するも、決定戦では逆に北勝海に寄り倒されてしまい優勝同点に留まる。翌3月場所では13勝2敗の成績を挙げ優勝次点だったが、中盤の連敗と千代の富士戦が千秋楽休場による不戦勝だったことも響いて綱獲りならず。さらに5月場所も13勝2敗で優勝決定戦に進んだが、その決定戦では再び北勝海に呆気なく送り出されて、又しても優勝同点に終わってしまう。このように1989年1月場所から5月場所の連続3場所で40勝5敗、優勝同点2回の好成績を収めており、横綱昇進の基準である「大関で2場所連続優勝、又はそれに準ずる成績」に該当し、横綱になって当然の筈であった。だが1987年11月場所後に優勝経験が一度も無しのまま横綱昇進した同門(立浪一門)の第60代横綱・双羽黒(立浪部屋)が不祥事で廃業していたことから、当時は横綱昇進基準厳格化の声が高まっており、その煽りをまともに受ける格好で不運にもことごとく昇進が見送られた[4]。公式には「(5月場所の)優勝決定戦での負け方が悪い」とされていたが、『スポーツ報知 大相撲ジャーナル』2020年1月号では「訳の分からない理由」と当時の昇進見送りについて断じられていた[9]

横綱推挙を見送られ続けたショックからか旭富士は暴飲暴食に走り、次の7月場所には大関昇進前に発症した持病の膵臓炎を悪化させてしまった。その影響からなる稽古不足も祟り[注 3]、中盤辺りから崩れて8勝7敗に終わり、綱獲りは完全に白紙に戻されてしまった[注 4]。この病はその後も約1年近く苦しみ、7月場所から翌1990年(平成2年)3月場所まで5場所連続で8・9勝の1桁勝ち星に終わる[注 5] など、それまでの活躍が嘘のように不振が続いた。慢性膵炎の治療により食事制限が課され、野菜と米だけで15日間乗り切らざるを得なくなった場所も1度経験したという[6]。当時29歳の年齢もあり、好角家やマスコミ陣などから「横綱昇進は絶望的」と見られ、「悲運の大関」で終わるかとも思われていた[4]

それでも病気は徐々に回復していき、1990年(平成2年)5月場所ではその他横綱・大関陣らと共に初日から7連勝。中日に千代の富士に敗れるも14勝1敗で、14場所ぶり2度目の優勝を遂げ、再び横綱候補に名を挙げた[1]。30歳で迎えた翌7月場所は3日目に平幕の両国に敗れたが、4日目から11連勝して単独トップ、千秋楽結びの一番では、星一つの差で追う千代の富士を倒して14勝1敗で3度目の優勝を連覇で果たした。この千代の富士との対戦は、旭富士が巻き替えて両差しで出たところを土俵際で千代の富士が左から強引な上手投げを打ち、旭富士が掬い投げで返し投げの打ち合いとなり、最後は旭富士が千代の富士の首を左腕で押さえつけながら体を預けて下した[10]。「取組の直後、極度の疲労により20分から30分の間吐き気に襲われた」と当時の様子を後に本人が述懐している[6]。なお、旭富士の大関在位の17場所中、負け越し・角番は一度も無かったが、横綱昇進者では武蔵丸の32場所に次ぐ大関在位記録となっている。
横綱時代?引退

7月場所後の横綱審議委員会では約30分間の審議の末、全会一致で旭富士の横綱推薦を答申した[11]。諮問にあたって、2場所連続優勝であるもののその前は5場所連続一桁の勝星であったため審判部内のムードは盛り上がっていなかったが[10]、委員長代行の上田英雄は「(2場所連続優勝という成績が)昇進の条件は満ち満ちている」「横綱として恥ずかしくない気力、体力、技能を持っている」[11]と述べ、委員の一人稲葉修は「千秋楽結びの一番は後世長らく相撲史に残る大一番。(千代の富士に勝った)旭富士には力強さが感じられた」[11]と評し、課題とされた力強さが取り口に備わってきたことを高く評価した。


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