旭天鵬勝
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「大島勝」はこの項目へ転送されています。「大嶋勝」とは別人です。
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出典検索?: "旭天鵬勝" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年9月)

旭天鵬 勝

幕内最高優勝を果たし表彰式に臨む旭天鵬(2012年5月20日)
基礎情報
四股名旭天鵬 勝
本名太田 勝
愛称テンホー、角界のレジェンド、ひとみさん
生年月日 (1974-09-13) 1974年9月13日(49歳)
出身 モンゴルウランバートル市ナラフ区ナライハ町
身長191cm
体重160kg
BMI43.86
所属部屋大島部屋友綱部屋
得意技右四つ、寄り
成績
現在の番付引退
最高位西関脇
生涯戦歴927勝944敗22休(140場所)
幕内戦歴697勝773敗15休(99場所)
優勝幕内最高優勝1回
敢闘賞7回
データ
初土俵1992年3月場所[1]
入幕1998年1月場所[1]
引退2015年7月場所[1]
引退後年寄・大島→同・友綱→同・大島
趣味映画鑑賞
備考
金星2個(貴乃花1個、朝青龍1個)
2015年7月27日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

旭天鵬 勝(きょくてんほう まさる、1974年9月13日 - )は、モンゴル国ウランバートル市ナラフ区ナライハ町出身で友綱部屋(入門時は大島部屋)に所属した元大相撲力士。本名は太田 勝(おおた まさる)、モンゴル名(帰化前)は ニャムジャブ・ツェベクニャム(モンゴル語キリル文字表記:Нямжавын Цэвэгням、ラテン文字転写:Nyamjavyn Tsevegnyam)。現在は年寄・11代友綱を経て6代大島として大島部屋(友綱部屋から名称変更)の師匠として後進の指導に当たっている[1]

愛称は「テンホー」(四股名に由来)。37歳で史上最年長初優勝を果たし、40歳になって以降も幕内力士として活躍した[1]ことから、マスコミでは「角界のレジェンド」とも形容されていた。現役時代の体格は身長191cm・体重160kg。長身による懐の深さを生かした取り口で知られた。得意手は右四つ、寄り。最高位は西関脇2003年7月場所・11月場所、2004年5月場所)。
来歴
若手?中堅時代

もともと相撲や柔道の経験はほとんどなく、中学時代はバスケットボールをしていた。1992年2月に旭鷲山旭天山らと共に来日して大島部屋に入門し、大相撲史上初のモンゴル出身力士の1人として同年3月場所において初土俵を踏む。四股名『旭天鵬』のうち『鵬』の字は、横綱大鵬にちなむ[2]

来日して半年後に、稽古の厳しさや日本の食文化などに馴染めず、共に来日した5人と部屋を脱走してモンゴル大使館に駆け込むが、モンゴルの実家まで来た師匠・2代大島(元大関・旭國)に「3年間は相撲を取るという約束がある」[3]「今に相撲はモンゴルの時代になる」と説得されて部屋へ戻った[4]。とはいえ脱走から戻ってきた力士への部屋の衆からの目は厳しく、実際脱走直後の1993年1月場所はその雰囲気に耐えられなかったため、大使館から場所入りするという特別待遇を認めてもらうことでやり過ごした[3]

来日後の3か月間は通訳が付いたものの、部屋のルールでモンゴル語を一言しゃべるごとに罰金3000円、カラオケで覚える[5]、などの工夫によりほとんど辞書を使わずに流暢な日本語を修得した。後にはその経験を買われて、2000年5月30日に「 ⇒学習ストラテジー概論:効果的な言語習得のために」というテーマで、早稲田大学日本語研究教育センター教授の宮崎里司と対話形式で授業を行ったことがある。その内容は『外国人力士はなぜ日本語がうまいのか』(日本語学研究所、2001年、ISBN 4625683181)という宮崎里司の著書でも紹介されている。

故郷のモンゴルでは米は必ず手を加えて何かと混ぜて食べるものであったため、最初に白米を出された時は吐き気がした[6]

1994年3月場所に幕下へ昇進し、1996年1月場所には西幕下9枚目の位置で7戦全勝という成績を挙げて優勝決定戦まで進出した。優勝決定戦ではこの場所において幕下付出で初土俵を踏んだ熊谷に敗れたものの、「幕下15枚目以内で7戦全勝すれば無条件に十両昇進する」という内規により、翌3月場所において新十両へ昇進した。その後、途中で幕下へ陥落することもあったものの、約2年間にわたって十両に在位し、1998年1月場所において新入幕を果たした。

その後、十両へ2回陥落したものの、1999年5月場所に3回目の入幕を果たしてからは幕内に定着し、2000年1月場所では11勝4敗と幕内では自身初となる二桁勝利を挙げて初の敢闘賞を受賞した。2002年1月場所では新三役となる東小結へ昇進した。2002年9月場所では横綱・貴乃花を破って初の金星を挙げた。2003年3月場所には横綱・朝青龍掛け投げで破り2個目の金星を挙げ、東前頭筆頭の位置で9勝6敗と勝ち越して2回目の敢闘賞を受賞した。西小結へ昇進した翌5月場所でも10勝5敗と三役としては自身初となる勝ち越しを決めて3回目の敢闘賞を受賞した。自己最高位となる西関脇へと昇進した翌7月場所では6勝9敗と負け越したものの、翌9月場所では東前頭2枚目の位置で10勝5敗の好成績を挙げて4回目の敢闘賞を受賞した[4]
円熟期

2004年1月に日本国籍の取得を申請し、2005年5月12日にモンゴル国籍を離脱、同年6月22日に旭天山と共に日本国籍を取得して、モンゴル出身力士としては初となる日本への帰化を果たした。2004年5月場所、朝青龍につり出しで勝利したが三役に復帰してたため金星にならなかったりもした。2006年1月にはモンゴル政府より、オリンピックのメダリストなどに贈られるスポーツ功労賞を受賞している。大相撲力士では、旭鷲山・朝青龍に続いて3人目の受賞者となった。同年5月23日には婚約を発表した。

2006年7月場所には、当時の現役力士では土佐ノ海と並び史上1位となる幕内連続出場660回を記録した。その後も幕内連続出場は続いたものの、2007年5月場所前に人身事故を起こし出場停止処分を受けてこの場所を全休(関取となってから初の休場)し、現役力士では単独1位となっていた幕内連続出場記録は720回で途切れた。8年ぶりに十両へ陥落した翌7月場所では12勝3敗と大きく勝ち越して優勝決定戦まで進出し、優勝決定戦では巴戦岩木山に敗れたものの、翌9月場所に1場所で幕内へ復帰した。その9月場所では千秋楽まで白鵬と優勝を争い、最終的には12勝3敗という好成績を挙げて5回目の敢闘賞を受賞した[4]。2007年11月場所で旭天山が引退して以降は、旭鷲山らと共に来日した初のモンゴル出身力士6人の中で現役最後の力士となった。

2009年1月場所では西前頭筆頭の位置で9勝6敗と勝ち越し、翌3月場所において17場所ぶりに小結に復帰した。34歳5か月での三役昇進は戦後では大関経験者を除いて史上9位の年長記録となった。同年7月場所にも小結に昇進し、34歳9か月16日での三役昇進は戦後では大関経験者を除いて史上6位の年長記録、通算10回目の三役昇進は史上8位タイの記録となった。


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