旭國斗雄
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旭國強」とは別人です。

旭國 斗雄

基礎情報
四股名旭國 武雄→旭國 斗雄
本名太田 武雄
愛称ピラニア[2]、相撲博士[2]
生年月日 (1947-04-25) 1947年4月25日(77歳)
出身北海道上川郡愛別町
身長174cm
体重118kg
BMI38.97
所属部屋立浪部屋
得意技右四つ、寄り、下手投げとったり
成績
現在の番付引退
最高位東大関
生涯戦歴635勝479敗57休(98場所)
幕内戦歴418勝330敗57休(54場所)
優勝十両優勝1回
幕下優勝1回
敢闘賞1回
技能賞6回
データ
初土俵1963年7月場所[1]
入幕1969年7月場所[1]
引退1979年9月場所[1]
引退後大島部屋師匠
備考
金星2個(北の富士1個、琴櫻1個)
2014年3月19日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

旭國 斗雄(あさひくに ますお、1947年4月25日 - )は、北海道上川郡愛別町出身で立浪部屋に所属した元大相撲力士。本名は太田 武雄(おおた たけお)。最高位は東大関。現役時代の体格は身長174cm、体重118kg、血液型はB型。

小柄だが闘志溢れる取り口で「ピラニア」の異名を持つ一方、理路整然とした取り口の分析談から「相撲博士」の異名でも知られていた[3]。引退後は長く年寄大島として大島部屋を経営し、日本相撲協会の理事として巡業部長も務めた[1]
来歴
入門から大関昇進まで

農家の三男として生まれる。幼い頃からスポーツが得意で、中学校時代は野球をしていた。3年生の時に人数不足から相撲部の助っ人として大会に出場し優勝。大島親方(元前頭19枚目・若浪)を紹介され1962年、立浪部屋に入門した。床山の新弟子と間違われたほど小柄だったため新弟子検査では4場所続けて不合格になり諦めかけたが、兄弟子や親方に励まされてもう1度受けることを決意。少しでも身長の計測で有利になるようにと兄弟子に頼んで頭を殴ってもらい瘤を作り、床山に頼んで髪を持ち上げてもらい検査を受けた。幸運にもその時(1963年7月場所)の検査を担当したのが師匠の立浪親方(元横綱羽黒山)だったため御目溢しで合格の判を押してもらえた[4]四股名である旭國は、かつて立浪部屋の力士であった同じ北海道出身の旭國旭川市出身)の名を継いだもので二代目である。

新弟子時代は同部屋の所属力士が約60人もおり、早起きしなければ土俵での稽古が満足に積めなかった。黒姫山も早起きであったので、どちらが朝稽古の1番乗りになるか競争していた。大部屋なので兄弟子のいじめもあり、早く出世しないといじめによって壊される恐れもあったので一生懸命稽古に励んだ。辛くなって辞めたくても、廃業したら母親が悲しむと思って我慢していた[5]。一方で弟弟子の黒姫山の証言によると、旭國はやはり見習い期間が長かったため、新弟子検査合格から半年程度で髷を結い始め、その頃から部屋の幕下とも対等に口を聞いていたという[6]

旭國は幕下時代に盲腸の手術を受けたが、傷が癒える前に稽古を始めてしまい、しかも大酒を飲んだことがたたって膵臓を患い苦しまされた[1]。この膵臓炎は結果として「現役時代に10数回入院し、最長で28日間絶食」という苦しい経験をもたらす程に大きな障害となった。[7][8]膵炎の原因は根本として若浪の付き人を務めていた頃に酒を飲み過ぎたことにあり、若浪自身もそれを後年述懐していた。[9]1969年7月場所に新入幕。しかし1970年3月場所を急性胆嚢炎で13日目から途中休場し、翌5月場所は9勝6敗と勝ち越すも7月場所は4勝11敗と大負けして十両から陥落する。1971年11月場所に再入幕したが、翌年の1972年1月場所は膵臓炎で初日不戦敗の後、休場してしまい再度十両から陥落した。同年5月場所に再々入幕してからようやく幕内に定着することになる。

小結だった1975年3月場所は、膵臓炎で入院し初日から休場したが点滴が終わると病院を抜け出して稽古をしていた。医師には「こんな体で相撲取ったら死ぬぞ。」と警告されても「土俵で死ねれば力士の本望」と10日目から出場して4勝2敗。背骨の両脇に上下に並ぶ鍼の跡の絆創膏が大きく目立った。翌7月場所で11勝4敗の好成績を挙げて1場所で小結に復帰してからは三役に定着していき、関脇の地位で迎えた1976年1月場所は12勝3敗、大関獲りとなる3月場所は初日から白星を並べていき13勝2敗の好成績で横綱・輪島との優勝決定戦に出場、敗れはしたが大関に昇進した[4][1]。28歳11ヶ月での新大関昇進は、年6場所制が定着した1958年1月場所以降初土俵の力士では、当時最年長であった(現在は琴光喜が記録を保有。)。実際に大関昇進が確定したのは、この場所13日目の北の湖戦で11勝目を挙げた一番で、右上手を取って頭を付けた旭國が北の湖が右から小手に振るところを左外掛けで防ぎ、渾身の力で寄り切った相撲内容であった。立浪部屋からは若羽黒以来17年ぶりの大関[10]
大関時代

大関になってからも旭國は膵臓炎の影響で満足な成績を出せる場所は多くなかったが、1977年9月場所は誰もが驚く絶好調、連戦連勝で横綱・北の湖と優勝争いの先頭を併走、直接対決には敗れ優勝はできなかった(北の湖は全勝優勝)が、堂々の14勝1敗[1]。綱獲りとなった11月場所も8勝7敗に終わり、旭國の横綱昇進は果たせなかった。

旭國は、平幕など下位の相手には技量・力量を見せつけ、比較的勝ち星を量産できたものの横綱・大関との対戦になる場所後半に負け込むことがほとんどだった。横綱との対戦でとりわけ苦手にしていたのは輪島であり、対戦成績は旭國の4勝31敗(決定戦含む)と大きく差をつけられた。大関昇進を決めた1976年3月場所でも、本割・優勝決定戦の両方で輪島に敗戦した。北の湖との対戦も7勝27敗と大きく差をつけられた。この7勝のうち、6勝は大関昇進前の勝ち星であり、昇進以後は1977年5月場所に一度勝利したのみで全く勝てなくなった。前述通り、旭國は大関在位中に千秋楽まで優勝を争った場所でも、北の湖に負けたことで優勝を逃した。その他、大関貴ノ花にも分が悪く、通算で11勝26敗と大きく負け越した。(不戦敗を含む。両者が大関同士では対戦成績は4勝13敗。)

それでも、持病の膵臓炎で度々入院治療を続けながら1978年3月場所7日目、魁傑との取組で4分26秒の大相撲で水入りして3分25秒でも全く勝負がつかず再水入り、両者に休憩時間を与える為に当日の結びの一番(北の湖 - 青葉山戦)を先に行った後、10分後改めて取り直しとなった。その取り直しの一番も、三度目の水入りとなる寸前の2分33秒で掬い投げで敗れはしたものの、合計10分19秒の大熱戦で、場所前に退院したばかりの旭國にとっては正に「土俵上で死ねたら本望」の言葉通りの相撲であった。この相撲は、打ち出しが18時25分に達し、NHKの相撲放送延長の新記録となっている[11]

1979年9月場所7日目に同期生である新横綱・三重ノ海との対戦で負傷して途中休場後、再起は難しいと考えて引退した。


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