早稲田騒動(わせだそうどう)は、1917年(大正6年)に早稲田大学で発生した[1]学校騒動・学園紛争。学長を務めていた天野為之の後任をめぐる派閥争いだったが、学生やジャーナリズムも巻き込む社会問題となった。
経緯
背景天野為之
早稲田大学は大物政治家である大隈重信が創設以来総長を務めてきた。大隈は日常的な経営には口を出さなかったが、大学経営に強い発言力を持つ維持員会に腹心や肉親を送り込み、影響力を保持していた[2]。大学の敷地は大隈家から寄贈を受けたものであり、また大隈の名声によって寄付金も集まるなど、大隈家依存の傾向が強かった[3]。高田早苗・天野為之・坪内逍遥は創設以来大学を支え、維持員会の会員でもあり、「早稲田三尊」と呼ばれていた[4]。1907年(明治40年)には天野が鳩山和夫校長と連携し、高田がつとめていた経営責任者の職である学監に就任しようとし、大隈が介入して鳩山を辞職させて高田を留任させたことがある[5]。
1914年(大正3年)4月16日、大隈が首相に任命され、第2次大隈内閣を組織したが、翌年8月の内閣改造で文部大臣として学長の高田を起用し、後任の学長には商科科長・早稲田実業学校校長を務めていた天野が就任した。しかし、同時に理事および維持員の増員を行い、名誉教職員規定が制定され、天野学長の権限を抑制する措置がはかられた。一方で天野は総長ポストの廃止を行って大隈家との縁を絶ち、維持員会についても廃止しようと考えていた[6]。 1916年(大正5年)10月4日、大隈が辞表を奉呈すると、高田も文相を辞職することとなった。1917年(大正6年)8月31日には天野の任期が切れることもあり、「恩賜館組」と呼ばれる少壮教授グループ[注釈 1]などに高田を再び早大学長に復帰させる動きがあった。維持員会の大勢は高田派であり[2]、6月17日には高田・坪内・市島謙吉・浮田和民らが協議して高田の学長復帰を合意し、翌日大隈に報告している[5]。しかし天野の秘書佐藤正が、天野を排斥して高田が復帰しようとしているという記事を『万朝報』や『中央新聞』に持ち込み[7]、大きな社会問題となった[6]。石橋湛山 大学内教職員の多くが高田派であったのに対し、学生たちはおおむね天野に対して同情的であり[8]、早大出身の憲政会代議士からも高田の学長復帰を「政治的背信行為」と非難する声が上がった[9]。やがて天野派は石橋湛山(ジャーナリスト、のちの内閣総理大臣)の下に集結し、斎藤隆夫や西岡竹次郎などの有力校友も牛込天神町の東洋経済新報社に出入りするようになった。坪内逍遥は石橋を「ケレンスキー」と呼んで激しく非難した[10]。 維持員会は事態を解決するため高田の学長復帰を断念し、天野は任期満了で退任という形を取ることとした[7]。しかし天野は大隈の勧告にも従わず、学長を続ける意思を明らかにした[7]。8月17日、維持員会は学長を当面置かず、理事7名によって運営を行うことを決め、大隈の承認を得た[11]。高田は名誉学長の称号も終身維持員も辞退し、天野も8月31日をもって学長を退任した[11]。
騒動の開始
騒動の拡大正力松太郎革新団による大学占領