早田宮(はやたのみや、わさだのみや)は、日本の皇室における宮家の一つ。鎌倉時代から南北朝時代にかけて存在した。円満院門跡の門主を務めた。別名「円満院宮」とも[1]。
概略
円助法親王が「早田宮」あるいは「金龍寺宮」と称したことが史料上の初見である。
円助法親王は宝治3年(1249年)1月に円満院で出家し、翌建長2年(1250年)2月に法親王宣下を受け、円満院門跡となる。正嘉元年(1257年)には園城寺長吏に、弘長2年(1262年)9月には四天王寺別当に補せられ、文永10年(1273年)に牛車を許され、翌文永11年(1274年)3月に二品に叙せられている[1][2]。父・後嵯峨法皇の崩御時にはその遺言書を開き、弟にあたる亀山天皇を治天の君に決定する時の立会人となった[3]。『増鏡』には、文永10年(1273年)に円助法親王が宮中で尊星王の修法を勤めたところ間もなく火災が起こり、亀山天皇が故・後嵯峨院の遺産処分状の入った小唐櫃を救出したというエピソードが紹介されている[4]。弘安5年(1282年)8月12日薨去。享年47。 円助法親王の弟にあたる鎌倉幕府第6代征夷大将軍・宗尊親王の次男の真覚権僧正が「早田宮」を称して円満院門跡となる[5][6]。
真覚
真覚は元応元年(1319年)以降還俗しており[5]、円満院門跡の寺伝によれば「早田中務卿」とも称した[9]。 真覚には元応元年(1319年)生まれの王子・早田宮宗治王と一名以上の女子があった[5][10]。宗治王は後醍醐天皇の猶子となるが、その後源姓を賜り臣籍降下し、「非参議従三位左中将宗治」あるいは「宮三位中将」とも呼ばれた[7][10][11]。宗治は後醍醐天皇の皇子で南朝征西将軍宮となった懐良親王と同じく九州に赴任した模様で、貞和元年(1345年)鎮西で没したという。享年27[11]。 宮号の起源は、文永9年(1272年)『後嵯峨上皇処分状案』の円満院宮の項に豊後稙田庄があることに関係している可能性がある[12][13]。後述する『太平記』の現存する諸本のうち、成立当初の内容に一番近いとされる古態本『西源院本太平記』(重要文化財)では「早田宮」を「はやたのみや」と読ませている[14]。
源宗治
宮号の由来
系図
88代天皇
後嵯峨天皇
6代将軍
宗尊親王 89代天皇
後深草天皇
〔持明院統〕 90代天皇
亀山天皇
〔大覚寺統〕 初代早田宮
円助法親王
7代将軍
惟康親王 早田宮
真覚
宗治
某王 弘徽殿ノ西ノ台
某女王
某