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やノートページでの議論にご協力ください。早慶戦慶早戦
初開催1902年(柔道)
1903年(野球)
1905年(レガッタ)
1922年(ラグビー)
1923年(陸上競技)
1924年(テニス)
1925年(剣道)
1927年(競泳)
1929年(ボクシング)
1929年(体操競技)
1935年(レスリング)
1935年(アメリカンフットボール)
1940年(バスケットボール)
1950年(サッカー、定期戦)
チーム早稲田大学
慶應義塾大学
早慶戦(そうけいせん)または慶早戦(けいそうせん)は、早稲田大学(以下、「早稲田」)と慶應義塾大学(以下、「慶應」)との、早慶両校の対抗戦である。主にスポーツ(特に野球、サッカー、ラグビー、レガッタ)での対戦における伝統の一戦としてメディア等で扱われており、日本では「学生による世界三大競技」の1つとして認知されている[1]。スポーツ分野以外でもこの両校の学生サークルが実施する討論会などで使用されることがある。
呼称「早慶#慶早」も参照
一般には「早慶戦」の呼称が定着しているが、慶應義塾の関係者からは「慶早戦」と呼ばれることがある。とはいえ必ずしも統一されておらず、あえて「早慶戦」と呼ぶ慶應関係者も多いとされる[2]。慶應大学准教授の都倉武之は「多くの塾関係者も『早慶戦』と呼ぶのが実態」としている[3]。慶應大学と関連組織でも、学生部や体育会では「早慶戦」[3][4]、應援指導部、慶早戦支援委員会(学生有志による団体。後述)では「慶早戦」[3]と呼ぶなど対応が分かれる[注 1]。
「早慶戦」表記が定着した理由として「早稲田出身のマスコミ関係者が多かったため」との説があるが、都倉は「単に語呂が良かった」説を推し、また「世間で『早慶戦』表記が定着しているのに、目くじらを立て『慶早戦』と呼ぶのはスマートさを欠き、かえって慶應らしくない」としている[3][5]。2008年、創立150周年を記念し刊行された『慶應義塾史事典』の編集会議では「慶早戦」表記への統一が試みられたが、慶應内部にも「早慶戦」表記を推す部があり紛糾し、ついに統一されなかった[3]。
硬式野球早慶両チームの記念写真(1904年秋、戸塚球場)2008年春の早慶戦
早稲田と慶應による硬式野球が「早慶戦」の起源とされる[注 2][6][7]。
この早慶両校の野球チームの対抗は、現在のような各種野球大会・対抗戦・競技団体組織が未整備だった当時創成期の日本野球界やさらにスポーツ界全体においても大変な人気を博し、その後の東京六大学野球連盟の結成、さらに各地のアマチュア野球の形成・発展、そしてプロ野球の発足へと続く日本野球の発展に大きく貢献し、またその礎となった。こうした歴史からマスコミで早慶戦に触れる際に「伝統の」という言葉を冠することが多い。このような早慶野球戦の発展(と紆余曲折)が早慶両校の対抗意識を醸成し、結果として後年には他の競技や更には学術分野にまで早慶両校間の対抗・連携にまで影響を及ぼすようになった。
現在は東京六大学リーグ戦の最終週に組み込まれており、同リーグ戦の看板カードである。NHKなどによるテレビ中継も行われている。華やかにして創意工夫に富み、なおかつ礼・節を保った応援合戦は日本の野球応援に多大な影響を及ぼしてきた(後述)。早慶両校に優勝がかかる展開となれば、学生のみならずファン・OBが駆けつけ神宮球場を埋める。優勝校は神宮から学舎まで紅白の提灯を掲げてのパレード(「提灯行列」、「提灯パレード」と呼ばれる)を行う。
開催時期は春季が5月最終週か6月第1週の土・日曜日、秋季が10月最終週か11月第1週の土・日曜日、ともに神宮球場で行われる(なお、神宮球場は早慶戦を初めとする東京六大学野球を収容する球場として発足している)[注 3]。東京六大学リーグは通常1週に2カード組まれるが、最終週の早慶戦のみ単独開催となっている。これは、後述のように東京六大学連盟が早慶戦を起源とすることに由来したものである。
リーグ戦の他に現役・OB混成チームによる「オール早慶野球戦」(全早慶戦)が行われる。2003年度は早慶戦100周年を記念し、プロ選手のOBも出場した。2009年度は、8月22日に松山市坊っちゃんスタジアムで、11月23日には阪神甲子園球場でも開催された(甲子園での開催は53年ぶり)[注 4]。2008年8月6日から20日にかけては、ブラジル日本人移民100周年記念として、早慶両部によるブラジル遠征も行われた。
春の早慶戦は両校のサークルにとって新入生歓迎行事の一環として利用されることもあって、両学生席とも外野席まで使っての大応援となる。基本的に学生席内は座席指定がなく早い者勝ちとなるため、しばしば徹夜による席取りが行われてきた。これが球場周囲をはみ出して一般道にまで及んだり、酒に酔った学生が器物を壊したり、また一般人とけんか沙汰になるなど社会問題化したため、徹夜待ちは禁止となっている。
入場待ちの学生を統制するのは早稲田では「早慶戦支援会」、慶應では「慶早戦支援委員会」という、いずれも学生有志で組織された会が応援(指導)部員とともに担っている。また、徹夜待ち回避のため、サークル対象に行われる事前の入場順位抽選や、リーグ戦観戦時に得られるスタンプを規定数持っている学生には優先して早慶戦の学生席券を売る・あるいは入場順を考慮するなどの工夫も見られる。
歴史
開始から中断まで第1回早慶戦の両校選手
(1903年11月21日。前列右から吉川清、小原益遠、宮原清、河野安通志、青木泰一、橋戸信、時任彦一、森本繁雄、林田峯次、後列右から宮本熊三郎、猪瀬順、桜井弥一郎、泉谷祐勝、高浜徳一、押川清、柳弥五郎、獅子内謹一郎、鈴木豊)
両校の初の対戦は1903年(明治36年)11月21日、慶應の三田綱町球場にて行われた。早稲田が先輩格の慶應に「挑戦状」を送達し、慶應がそれに応じたことによって行われた試合である(このときの双方の書面は野球殿堂博物館に所蔵されている)。挑戦状の筆者は当時の早稲田主将橋戸信であったといわれている[8]。
第1回早慶戦[9]
123456789R
慶應義塾02120024011
早稲田0510002019
(慶):桜井 - 青木
(早):河野 - 泉谷
審判
[球審]黒田
試合は11-9で慶應の勝利。当時早稲田は野球部発足から1年余り、対する慶應は発足から20年近い歴史を持ち当時最強を誇った一高に勝った実績も持っていた。しかし後発でかつ格下の早稲田が大いに善戦したことによって慶應も対戦相手にふさわしいと評価し、翌年から定期戦を行うことに決まった。
1904年(明治37年)6月1日・2日、当時学生野球王者と謳われた一高野球部に早慶両校が連日にわたり勝利すると、早慶戦は学生野球の頂点=当時の日本野球の頂点を争う試合として衆目を集めた。早稲田のアメリカ遠征(1905年)後には定期戦を2勝先勝方式にし、2勝した側にトロフィーを与えることとした(トロフィーは早稲田渡米の際、サンフランシスコ在留の日本人協議会から贈られた銀杯であった)[注 5]。