早川雪洲
[Wikipedia|▼Menu]

はやかわ せっしゅう
早川 雪洲
早川雪洲(1918年)
本名早川 金太郎(はやかわ きんたろう)
別名義在原 狂夫(ありはら たけお)
生年月日 (1886-06-10) 1886年6月10日
没年月日 (1973-11-23) 1973年11月23日(87歳没)
出生地 日本千葉県朝夷郡千田村(現在の南房総市千田)
死没地 日本東京都千代田区神田駿河台
職業俳優映画監督映画プロデューサー脚本家
ジャンル映画テレビドラマ舞台
活動期間1913年 - 1967年
配偶者青木鶴子(1914年 - 1961年)
渡辺黙子(1964年 - 1973年)
著名な家族息子:早川雪夫(放送作家)
主な作品
『タイフーン(英語版)』(1914年)
チート』(1915年)
『蛟龍を描く人(英語版)』(1919年)
ラ・バタイユ』(1923年)
『ヨシワラ(フランス語版)』(1937年)
戦場にかける橋』(1957年)

 受賞
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞
助演男優賞
1957年『戦場にかける橋ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム
1960年 映画産業への貢献に対して[1][2]

テンプレートを表示

早川 雪洲(はやかわ せっしゅう、: Sessue Hayakawa[注 1]1886年6月10日 - 1973年11月23日)は、日本俳優映画監督映画プロデューサー脚本家。本名は早川 金太郎(はやかわ きんたろう)。アメリカ合衆国を中心に日本、フランスイギリスなどで活躍した国際俳優で[5][6][7]、アメリカとヨーロッパで主演男優としてスターダムにのし上がった最初のアジア系俳優だった[8][9][10]サイレント映画時代の1910年代から1920年代初頭にかけて、ハリウッドで最も人気のあったスターのひとりであり[11][12]、エキゾチックな美貌と性的に魅力的な悪役というタイプキャスティング(英語版)で、公然と人種差別が行われていた時代にアメリカ白人女性の心を掴み、ハリウッドで最初の男性セックスシンボルのひとりとなった[13][14][15]。恋人や悪役として主演した映画は120本以上に及んだ[16]

千葉県で生まれ育ち、1907年に21歳で単身渡米し、ロサンゼルスの日本人劇団で活動したあと、1913年にハリウッドで映画デビューした。1915年に『チート』でトップスターの地位を確立し、白人女性を誘惑する悪役の日本人役でマチネー・アイドル(英語版)として人気を獲得した。その一方で、アメリカで排日運動が高まっていた背景もあり、日本人社会からは雪洲の役柄が反日感情を助長するとして強く非難された。1918年からは自身の映画会社ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション(英語版)でプロデューサー兼主演俳優として活動したが、1922年に反日感情の高まりのためハリウッドを離れた。その後は私生活での女性問題や第二次世界大戦など波乱な人生を送りながら、1960年代までの半世紀にわたり欧米や日本で映画、舞台、テレビに出演した。キャリア後期の代表作『戦場にかける橋』(1957年)の捕虜収容所所長役は、雪洲の最も有名で高く評価された演技となり、第30回アカデミー賞では助演男優賞にノミネートされた。妻の青木鶴子もまたハリウッド草創期に活躍した映画女優である。
前半生
生い立ち

1886年6月10日[注 2]、早川金太郎は千葉県朝夷郡千田村(1889年に七浦村に合併、現在の南房総市千倉町千田)611番地に、父・與一郎(よいちろう)と母・か祢(かね)の6人兄姉の三男として生まれた[18][19]。兄姉は上から順に、長兄の音治郎、長女のトキ、次女のいろは、次男の寅松、三女のとくはである[18][注 3]。早川家は江戸時代庄屋を務めた裕福な家で[17]明治時代にはテングサなどの海藻を扱う海産物商、鮮魚出荷や回漕業、雑貨や酒の小売商などを営む網元となり、地元では「千田の与一」と呼ばれた[21]。與一郎は地域の顔のような人物であり、七浦村の初代村長も務めた[18]。早川家は千田村から4里ほど離れた和田村(現在の南房総市和田町和田)に住む「和田の鉄砲」と呼ばれた網元の根本家と、漁場をめぐる争いを長い間続けていて、根本家からの襲撃に備えて、宿子と呼ばれる若い漁師を20人以上も寝泊まりさせ、家の周りには高さ約4.5メートルもの石塀を張りめぐらしていた[22]

厳格な人物だった與一郎は、槍の名手で武道を好んだことから、宿子や子供たちに剣道を奨励した一方で、自宅に私塾を設けて宿子たちに勉強をさせた[23][24]。金太郎も父の命で剣道を習い、宿子たちと修身四書五経などを学んだ[24]。1892年に金太郎は七浦小学校尋常科に入学したが[25]、当時は宿子たちから「ぼんぼん」などと甘やかされており、その姿を見た與一郎は息子を甘やかしてはならぬと考え、金太郎を厳しくしつけた[24][26]。父のしつけの中で金太郎を最も悩ませたのは、毎朝20個ものランプの掃除をひとりでさせられたことである[24]。金太郎はこの苦役をなるべく避けるため、毎日のように仲間たちと遊んでいた戦争ごっこで負けた組の子たちに、罰としてランプ掃除をさせ、その報酬として黒砂糖を一匙ずつ与えた[24][27]。金太郎はその土地の子供たちの餓鬼大将となり、両親からも「喧嘩には負けるな」と言われ続けていたが、小学校1年生ぐらいの時には、朱鞘の刀を抜いて父に凄んでいた不審な男を追い払ったことがあり、これには與一郎も度肝を抜かれたという[24][28][29]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:432 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef