早大童話会(そうだいどうわかい)は、早稲田大学に存在した学内サークル。童話・児童文学の研究や作品発表を目的としていた。通称「童話会」。
当記事では早大童話会のメンバーが中心となって作った、びわの実会(びわのみかい)や、児童文学研究会(じどうぶんがくけんきゅうかい)などの派生団体についてもあわせて説明する。早大童話会やびわの実会は数多くの児童文学作家・児童文学研究者・翻訳家・脚本家・放送作家・編集者などを輩出(漫画界におけるトキワ荘のようなもの)、日本の児童文学史を語る上で欠かせない存在となった。
2011年現在早稲田文芸会(わせだぶんげいかい)と児童文学研究会が存在。童話のみならず、大人向けの小説や評論、書籍以外のメディアも幅広く扱っている。 1925年創立。創立理由は、関東大震災の被災者の震災小屋(今で言う仮設住宅)に住む児童の慰問を行った早大生が「児童文化のサークルが学内に無い」と考えたため。当時「童話界の三羽烏」と呼ばれた小川未明、坪田譲治、浜田広介の三人が顧問となった。当初は微妙に違う名の団体だったが、翌年児童劇部・童謡部・童話部が各分割され、正式に早大童話会となる。 当時の部室は、学生会館の地下室である19号室。寺村輝夫はここで英会話サークルの場所を聞いた事が、古田足日と砂田弘は斜め向かいに部室があった現代文学研究会に入っていたことが、童話会に入るきっかけだった。 会誌は1935年から『童苑』を発行、1938年より刊行形態を仕切りなおして号数を一号から振りなおす。翌年から新聞形式で1-2ヶ月に一回発行の『童話界』も加わった。戦争中は学徒動員号を出した後、物資不足で発行が中断。1949年に『童話界』が再開したが、翌年再開した『童苑』に統合され発展的解消。同誌には合評会を経て幹事会で選ばれた優秀作しか掲載されず、後にプロデビューする人物でも、大学時代は一度も載せてもらえなかった者がいた。合評会自体は2011年現在も行われている。 寺村や千葉幹夫によると、当時は書いた作品を先輩たちの前で朗読させられ、平凡だと「ハイ、次!」(もういいから、次の人)と言われ、次の人に交替させられるばかりで、批評をもらえても「ここが悪い」「あそこが悪い」と、重箱の隅まで罵倒合戦だったという。 戦争中から少なくとも1950年代頃までは、大隈講堂で早稲田子ども会を毎年開き、日本舞踊や落語も招待・上演されていた。 1950年頃は毎週新作を書いてくると執筆枚数を申告して累計し、年間でもっと執筆枚数の多い会員に、当時まだ貴重品だった原稿用紙がプレゼントされた。山中恒は在籍中常にトップの執筆枚数を誇り、その次が鳥越信だったと、山中や古田が証言している。 以下の輩出者・参加者一覧について、複数の団体に関与する人物は、一番上に位置する団体のみに記述する。
経歴
早大童話会の創立と初期
輩出者
今西祐行(児童文学作家)
大石真(児童文学作家)
岡沢秀虎(ロシア文学者)
岡本良雄(児童文学作家)
川崎大治(児童文学作家)
北村順治
神宮輝夫(児童文学研究家、翻訳家)
鈴木隆 (作家)(児童文学作家)
砂田弘(児童文学作家、児童文学研究者、伝記作家、翻訳家)
高橋健(児童文学研究者、翻訳家)
竹崎有斐(児童文学作家)
寺村輝夫(児童文学作家)
鳥越信(児童文学研究家)
永井萌二
神宮によると、童話会時代は前述の未明・広介・譲治の影響で牧歌的な作品が広まっていたが、神宮の一年下で古田と鳥越が入会後、社会や政治と結びつけたやや硬い雰囲気に急変、「未明なんか駄目だ」という空気になったという。
1953年に古田と鳥越が「少年文学の旗の下に!」というタイトルコピーで「少年文学宣言」を発表。神宮と山中もこれに強く共鳴し、この四人は童話会・派生団体・プロ作家などにおいて、坪田とはまた別に、特異性のある関係を保っていく事になる(以下便宜上、鳥越たち四人と略す)。
こうしてこの世代の会員は、一世代前のびわの実会とある種の距離を隔つようになったが、砂田のように両派にまたがって活動した者もいる。さらに時代がたつと、児童文学者協会
が第三派に加わった。鳥越と神宮はその後早大で教鞭をとり、会員の中には童話会OBと知らずに授業を受けていた者もいた。だが鳥越たち四人が上級生になると、今度は下級生たちが少年文学宣言に否定感を示すようになり、千葉は1965年、三年の時に早稲田祭で未明・広介・譲治を再検証するシンポジウムを開催する。