早坂 暁
誕生富田 祥資(とみた よしすけ)
(1929-08-11) 1929年8月11日
愛媛県温泉郡北条町(現松山市)
死没 (2017-12-16) 2017年12月16日(88歳没)
東京都
職業小説家、脚本家
言語日本語
国籍 日本
教育学士
最終学歴日本大学芸術学部演劇学科
活動期間- 2017年
ジャンル脚本、 小説、随筆、戯曲、演出
代表作『天下御免』
『夢千代日記』
『花へんろ』
『ダウンタウン・ヒーローズ』
『必殺からくり人』
『華日記・昭和生け花戦国史』
『公園通りの猫たち』
『戦艦大和日記』
主な受賞歴向田邦子賞
新田次郎文学賞
芸術祭大賞
NHK放送文化賞
紫綬褒章
旭日小綬章
ギャラクシー賞
芸術祭優秀賞
モンテカルロ国際テレビ祭脚本部門最優秀賞
NHK会長賞
講談社エッセイ賞
プラハ国際テレビ祭大賞
芸術選奨文部大臣賞
NHK放送文化賞
放送文化基金賞個人賞
他
公式サイト
公式ウェブサイト公式Twitter
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早坂 暁(はやさか あきら、1929年8月11日 - 2017年12月16日[1])は、日本の脚本家、小説家。
本名、富田 祥資(とみた よしすけ)。
愛媛県温泉郡北条町(現松山市)生まれ。日本大学芸術学部演劇学科卒業。
戦後の日本を代表する脚本家のひとりである。 愛媛県温泉郡北条町(後の愛媛県北条市、現在の松山市北条)で、遍路道の大商家に生まれ育ち、幼少の頃からお遍路さんに接した。 旧制松山中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)を経て、海軍兵学校在学中に終戦。海軍兵学校からの復員途中に広島で一夜を明かし、被爆直後の広島の惨状を目撃した。旧制松山高等学校(現在の愛媛大学文理学部の構成母体)卒業後、東京大学医学部に合格するも、医業に疑問を持ち入学せず[2][3]、日本大学芸術学部演劇学科に進学し同校卒業。 中央婦人新聞(現・日本女性新聞社)の編集長を経て、いけばな評論家として活躍し、いけばな協会の設立に関わる。やがて子供向けテレビ番組の脚本や、ドキュメンタリー制作を手がけ、日本テレビで制作・放送された『ノンフィクション劇場』の多くの作品に関わる。その後テレビドラマや映画の脚本や小説で、常に庶民の目線で独自の作風を築く。 ドキュメンタリーや舞台戯曲、演出も手がけ、作品の総数は1000本以上ともいわれる。 代表作は『天下御免』『天下堂々』『関ヶ原』『夢千代日記』『花へんろ』『事件シリーズ』『びいどろで候』[4] 小説『ダウンタウン・ヒーローズ』『華日記・昭和生け花戦国史』『戦艦大和日記』エッセイ『公園通りの猫たち』『嫁ぐ猫』など。 『必殺シリーズ』では脚本をはじめ、オープニングナレーションも多数手掛けており、13話中10話を手掛けた『必殺からくり人』の脚本は史実と虚・世相を織り交ぜながらの巧みなストーリで、既存の必殺シリーズとは一線を画した内容でギャラクシー賞を受章するなど評価が高い。 生家が遍路みちに面した大きな商家で、幼少より遍路に接してきたこと、また、遍路に置き去りにされ、生家が引き取って「妹」として育った少女が、広島で原爆に遭い死亡したと思われる(8月5日に広島に行ったまま行方不明)ことなどから、遍路(四国八十八カ所)や原爆に関する作品や論評、活動も多く、胎内被爆者が主人公の『夢千代日記』[5]や生家をモデルにした『花へんろ』につながっている。
略歴
勉誠出版から『早坂暁コレクション』を刊行。初の単行本化となる長編小説『戦艦大和日記』や主なシナリオ作品を収録する予定だったが、全巻出版には至っていない。
2017年12月16日、都内の外出先で体調を崩し搬送、運ばれた東京都内の病院で腹部大動脈瘤破裂のため死去。88歳没[6][7]。 早坂は自身のドラマ作品の中で最も評価が高いのは『夢千代日記』だと思っていたが、アンケートによると1位が『花へんろ』、2位が『天下御免』で、3位が『夢千代日記』だと知らされたとエッセイに書いている。
人物
これだけは未来のために書き残したい、として「春子の人形」の脚本執筆を目指したが、未完成のまま冨川元文が執筆した。そして第1稿が完成した2日後、その1稿を見ることなく早坂は急逝した。2018年夏に『花へんろ 特別編 「春子の人形」』が、2018年夏に放送された[8][9][10]が、この作品は冨川が早坂の短編「春子の人形」を下敷きに、早坂の小説「ダウンタウン・ヒーローズ」などのエピソードを折り込んで執筆したもので、早坂暁が書いた脚本ではない。
坊っちゃん文学賞の審査員を初回から28年間にわたって務めた。また、純文学(エッセイ)の同人誌である、随筆春秋の指導者を黎明期から務め、随筆春秋賞の審査員[11]や、NHK銀の雫文芸賞の審査員も、長年にわたって務めた。
渥美清との交流
大学時代に学生運動にかかわり公安当局からマークされ浅草に潜伏中、銭湯で渥美清と知り合い、何度もプライベート旅行に行くなど親友となった。渥美の死後発見された晩年の手帳の最後のページに「……家族で旅行に行こう。ギョウさん(早坂暁の暁を音読みしたもの)も一緒に……」と綴ってあった。
2006年に放送された「渥美清の肖像?知られざる役者人生?」によると、早坂は渥美が大変才能のある役者であるにもかかわらず、「寅さん」以外の役をほとんど演じられなかったことを危惧し、また渥美本人の希望もあって渥美主演の作品を数作企画・用意していた。クランクイン寸前の作品もあったが「寅さん」のイメージに縛られるなど、諸々の事情により実現しなかった。しかし、渥美には、初期のテレビドラマ「泣いてたまるか」や、「土曜ワイド劇場」の第1回作品の「田舎刑事」シリーズなどの脚本を書いており、いずれも「寅さん」ではない渥美の魅力が引き出された名作となっている。
1996年8月13日に松竹大船撮影所で開かれた「寅さんとのお別れの会」では弔辞を読んでいる。
エピソード
脚本の仕上がりが遅いことで有名である。しかしその脚本は完璧といわれ、たとえば吉永小百合は「『夢千代日記』のスタジオでみんなで原稿を待っていると、早坂さんの手書きの原稿がファクスで1枚ずつ送られてくるのですが、その内容は宝石のように素晴らしく輝いているのです」と話している。また、多くの制作陣が脚本の遅さに、「まいった、早坂さんにはひどいめにあった、と閉口するものの、気がつけばまた早坂さんに依頼してしまうんです。そして、芸術祭などの出品作品を見ると、その早坂さんの作品がずらっと並ぶのです」と証言している。
三谷幸喜が脚本家を目指したのは、早坂の『天下御免』・『天下堂々』に感動し、知人よりそれらの撮影台本を入手し、こういうものを書きたいと思ったのがきっかけで、いつかはああいう(『天下御免』・『天下堂々』のような)ものを書きたいと語っている。
早坂は役者の新たな一面を見つけ導き出す面に優れており、中でも『花へんろ』で主演した桃井かおりは、この作品でそれまでのアンニュイなイメージとは全く違う慈悲深い母親役を見事に演じ、役者としての新境地を開いている。
2018.8.1NHKBS「早坂暁を探して?桃井かおりの暁さん遍路?」での桃井談によると、当時役者を辞めて八ヶ岳で生活していた桃井に、早坂から電話があり「白いごはんのような俳優になりなさい」と『花へんろ』の主役を打診されたことで本格的に復帰し、その後12年にわたって主役・静子を演じるという、役者にとってかけがえのない時間を過ごすことになる。
桃井は「誰よりも頼りにした脚本家だった。私、桃井かおりという役者の80%は早坂さんの作品でできている。暁さんは私の役者道にいつもいてくれて、必ず助けてくれる神様だった。暁さんが死んだら女優を辞めようと思っていた」と話している。しかし、番組中で生前の早坂が「これはかおりにやらせたい」と言い残していた小説「私が殺したゴッホ」を呈示され、「いい感じに宿題残してくれる、生き延びられるようにしてくれる。まさに暁さんだ」と結んでいる。
「新潮45」2001年2月号掲載の「戦艦大和日記」に『謀略?かくして日米は戦争に突入した』の文章の一部を使用したとして、著者の橋本惠が2001年京都地裁に提訴し、翌2002年に和解した。なお、橋本惠は早坂の親戚である。
早坂及び遺族によると、早坂には弟子はいない。シナリオは教えて書けるものではないので、弟子は取らない。というのがその理由である。単なる知人が「早坂暁の弟子」「早坂暁に師事」「薫陶を受けた」などと名乗る場合があるので気を付けるように、と生前より注意を促していた。
一部に「早坂は自宅を持たず、荷物もトランク一つという生活であった」等の報道記述があるが、これらは全くの誤りである。都内某ホテルを仕事場としていたが、自宅も存在し、いくつかの番組で自宅が公開され、多くの私物や資料も存在している。たとえ話があたかも事実のように発信されたと思われる。
1988年7月2日の「徹子の部屋」に出演した俳優の内藤武敏は早坂と原保美の三人でハートブレイククラブなる会を結成した旨を語っている。これは、三人がみな心筋梗塞を患っていたことに由来する。
人気作品
受賞・受勲
1968年 NHK「アイウエオ」「石狩平野」「契りきな」の3作品で第6回放送批評家賞 ギャラクシー賞
1971年 NHK「幻花」第18回放送批評家賞ギャラクシー賞期間選奨
1971年 NHK「天下御免」第19回放送批評家賞 ギャラクシー賞期間選奨
1973年 TBS「わが愛」第10回ギャラクシー賞期間選奨
1974年 NHK「ユタと不思議な仲間たち」第29回芸術祭優秀賞
1975年 ABC「現代浮かれ節考」第30回芸術祭優秀賞
1976年・1979年 モンテカルロ国際テレビ祭脚本部門最優秀賞、国際批評家賞
1976年 NET「必殺からくり人第2話・津軽じょんがらに涙をどうぞ」第14回放送批評懇談会選奨
1977年 ANB「時間よ、止まれ」第32回芸術祭優秀賞
1977年 NHK「冬の桃」15回ギャラクシー賞月間賞、テレビ大賞優秀賞
1977年 ABC「鞍馬天狗の「家」」第4回放送文化基金賞奨励賞、1978年日本民間放送連盟賞テレビ娯楽番組部門優秀賞
1978年 RNB「わが兄はホトトギス」第33回芸術祭優秀賞、1978年日本民間放送連盟賞優秀賞
1979年 NHK「修羅の旅して」第20回モンテカルロ国際テレビ祭最優秀脚本賞・国際批評家特別賞受賞、NHK会長賞
1979年 NHK「続・事件 海辺の家族」などで芸術選奨文部大臣賞
1979年 NTV「小児病棟」テレビ大賞優秀賞
1980年 ABC「空想家族」第18回ギャラクシー賞月間賞
1981年 NHK「夢千代日記」で第8回放送文化基金賞奨励賞受賞、第14回テレビ大賞優秀番組賞
1981年 NTV「母たることは地獄のごとく」1981年度放送文化基金賞奨励賞
1982年 NHK「続・夢千代日記」NHK放送総局長賞、放送文化賞、プラハ国際テレビ祭大賞、テレビ大賞優秀番組賞、放送文化基金賞ドラマ番組部門奨励賞