作家・早乙女勝元の長女で、映像プロデューサーの早乙女愛(1972?)とは別人です。
この項目では、女優の早乙女愛について説明しています。漫画「愛と誠」(後に映画・テレビドラマ化)の登場人物については「愛と誠」をご覧ください。
さおとめ あい
早乙女 愛
本名瀬戸口 さとみ
(せとぐち さとみ)[1]
生年月日 (1958-12-29) 1958年12月29日
没年月日 (2010-07-20) 2010年7月20日(51歳没)
出生地 日本・鹿児島県
死没地 アメリカ合衆国・ワシントン州シアトル
職業女優
ジャンル映画
テレビドラマ
舞台
活動期間1974年 - 2000年
主な作品
『愛と誠』
『女猫』
早乙女 愛(さおとめ あい、1958年12月29日[2] - 2010年7月20日)は、日本の女優である。身長166cm[2]。B86cm[3]。
鹿児島県[2]肝属郡高山町(現:肝付町)生まれ[4]。鹿児島県立高山高等学校卒業[2]。アルファエージェンシーに所属していた[2]。 7人兄弟の長女(最年長)で[4]、5人が弟で一番下に15歳離れた妹(江原道ブランドディレクターの瀬戸口めぐみ[5])がいる[4]。実家は印刷屋を経営していた[4]。中学時代は陸上部で鳴らす[4]。中学3年のとき、地元のカメラマンに『愛と誠』のオーディションの話を聞く[4]。 1974年(昭和49年)、漫画雑誌『週刊少年マガジン』に連載されていた、梶原一騎原作の漫画 『愛と誠』が映画化されるにあたり、主人公・太賀誠を演じる西城秀樹の相手役が公募された[注釈 1]。中学を卒業した春休みに「タダで東京へ行けて、西城秀樹さんにも会える」という動機で[4]、友人と共に応募し、4万人の中から選出され、松竹と専属契約。同年、映画での役名と同じ「早乙女 愛」の芸名で映画デビューした[6]。同作で脚光を浴び、1日に400通ものファンレターが殺到するほどの人気となった。映画もシリーズ化されたことでその多忙が影響し、鹿児島県立高山高等学校に入学は決まっていたが、入学式だけ行って高校は1年留年した[4]。『愛と誠』が三部作となったため、夏と冬の休みに上京し撮影[4]、4年かけて高校を卒業後[4][7]、上京し女優として活躍を続けた。 1983年(昭和58年)、成人映画である『女猫』(監督・山城新伍)に主演。それからはヌードシーンも厭わぬ大胆な演技に挑むようになった。1985年(昭和60年)に7歳年上の江原春義と結婚[8]。その後1986年に一緒に化粧品会社「江原道」設立[9][5]。結婚を機に徐々に仕事から離れつつ助演にシフトしていった。 1996年(平成8年)、出演していたテレビドラマシリーズ 『はるちゃん』(東海テレビ)を自身の妊娠により途中降板し、翌1997年に男子を出産。以降の芸能活動は映画等で数シーンのみの出演に留まった。2000年(平成12年)の映画『新・仁義なき戦い』への出演を最後に芸能界を引退[10]。 2002年(平成14年)頃よりアメリカ合衆国に居住していた[10]。2008年(平成20年)離婚し息子と2人で暮らす[10]。 2010年(平成22年)7月20日午前3時51分(現地時間。日本時間午後7時51分)、多臓器不全のためシアトルの病院で死去[10]。 家系的に胸が大きく、小学校4年から目立ったので、6年のとき、学校の担任から母に「お嬢さんにブラジャーを着けさせてください」と頼まれた[3]。小・中学校と陸上をやっていたため、男子生徒がズラーッと並んで茶化すため、恥ずかしい思いをずっとした[3]。大人になってもノーブラが好きで、乳首が透けて見える服のときだけブラジャーを着けていたという[3]。
略歴
人物
出演
映画
愛と誠(1974年)
港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ(1975年)
男はつらいよ 寅次郎相合い傘(1975年)
スプーン一杯の幸せ(1975年) - 福島ひとみ
続・愛と誠(1975年)
青春の構図(1976年)
愛と誠・完結篇(1976年)
俺は上野のプレスリー(1978年)
オレンジロード急行(1978年) - 宏美
女猫(1983年)
迷走地図(1983年) - 波子
北の螢(1984年)
瀬降り物語(1985年)
テラ戦士ΨBOY(1985年) - 片山先生
南京1937(1995年)
シャブ極道(1996年)
顔(2000年)
新・仁義なき戦い。(2000年)
テレビドラマ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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