旧証券取引所とロストラ柱
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サンクトペテルブルクワシリエフスキー島の全景と、東端(手前)の「ストレルカ」にある旧証券取引所とロストラ柱。写真に向かって左側のエルミタージュ博物館から右側のペトロパヴロフスク要塞へ行く道筋にある。

旧証券取引所とロストラ柱(きゅうしょうけんとりひきじょとロストラちゅう、英語: Old Stock Exchange and Rostral Columns, Saint Petersburg)は、ロシア連邦サンクトペテルブルクワシリエフスキー島の「ストレルカ」(砂嘴の意味)と呼ばれる所にある建物とその前の広場に立つロストラ柱(海軍勝利塔)で、ネヴァ川に沿った有名な観光地である。
ストレルカ

ロシア連邦サンクトペテルブルクネヴァ川に立つワシリエフスキー島の東端は「ストレルカ」(Стрелка=砂嘴の意味)と呼ばれており、そこは冬宮殿(現在はエルミタージュ博物館)から宮殿橋でネヴァ川を渡って行けて、さらに証券取引所橋で小ネヴァ川を渡るとペトロパヴロフスク要塞へ達するという便利な場所にあり、格好の観光地になっている[1]
旧証券取引所

サンクトペテルブルクのストレルカにある旧証券取引所(ロシア語: Здание Биржи)は、サンクトペテルブルクにある歴史的な建物である。住所はヴァシリエフスキー島の取引所広場4で、ギリシャ建築のリバイバル様式の代表例である。フランスの建築家トマ・デュ・トモンの設計で、イタリア・パエストゥムのヘラ神殿 (Temple of Hera) 風の建物が1805年から1810年の間に建設された。しかし、後に使用目的が変わり、1939年から2010年まで中央海軍博物館になっていた。
建築旧証券取引所の列柱入り口

旧証券取引所は冬宮殿の真向かいにあり、ワシリエフスキー島の砂嘴(ロシアでストレルカ)の空き地を埋めるために設置された。トマ・デュ・トモンの設計では、赤い花崗岩の巨大なスタイロベート基盤の上に置かれ、44のドーリア式支柱で囲むペリスタイルになっている[2]。海洋商取引を象徴するネプチューンを特徴とし、クアドリガ馬車に似た形の記念碑的な彫刻群が柱廊の上に取り付けられている。取引所の内側と外側の両方で、半円のモチーフが繰り返される。内部には列柱に囲まれた大きな取引場があり、現在8つの展示部屋に分かれている。中央の部屋は長方形の天窓で採光しており、天井は格間で装飾されている。
歴史ペトロパヴロフスク要塞から見た証券取引所と海軍省(フョードル・アレクセーエフ画、1810年)

証券取引所はピョートル大帝の勅令により設立された。彼はアムステルダムの証券取引所に触発されて、当時のロシアの首都に証券取引所の設立を命じた。1767年、市建設委員会はシレワフスキー島の砂嘴の空き地を開発し、サンクトペテルブルク証券取引所を建設することを決定した。この地区には1783年から1789年までの6年間で、ジャコモ・クアレンギ (Giacomo Quarenghi) の設計により、科学アカデミーの本館や倉庫など(1795?1797年)、さまざまな建物がネヴァ川の岸に建設された。これらの建物は証券取引所を左右で囲んでいる。証券取引所の建物自体の建設は1783年に始まったが、1787年に中断された。

プロジェクトは1805年に再開され、建築家トーマス・デ・トーモンが監督したが、ナポレオン戦争の激化により1810年までに作業は再び停滞した。建物の建設は1826年から1832年の間に行われ、内装はワシリ・デムト=マリノフスキ (Vasily Demut-Malinovsky) が担当した。南と北の倉庫と税関の建物は建築家のジョヴァンニ・ルキニの設計で完成した。

1913年から1914年にかけて、証券取引所の中央ホールに鉄筋コンクリート・アーチを取り付けるなどの作業をマリアン・ペレチャトコビッチとフョードル・リドヴァルが行なった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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