旧岩崎邸庭園
Kyu-Iwasaki-tei Gardens
旧岩崎家住宅 洋館
分類都立庭園・重要文化財
所在地東京都台東区池之端一丁目3番45号
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度42分35秒 東経139度46分4秒 / 北緯35.70972度 東経139.76778度 / 35.70972; 139.76778
旧岩崎邸庭園(きゅういわさきていていえん)は、東京都台東区池之端一丁目にある都立庭園である。三菱財閥岩崎家の茅町本邸だった建物とその庭園を公園として整備したもので、園内の歴史的建造物は、国の重要文化財に指定されている。 天正18年(1590年)8月、徳川家康が関東の領主として江戸入城の頃は、江戸は寂れた宿町だったとの記録がある[2]。家康は江戸城の守りを固めるため、徳川四天王と言われた家臣の井伊直政、榊原康政、本多忠勝、酒井忠次に要の土地を分け与えた[2]。榊原康政には、奥州に対する守りの要となる奥州街道沿いの池之端の土地と屋敷を与え、睨みを利かせていた[2]。台東区史によると「池之端は前方に不忍の沼沢を、後背に向ヶ岡台地を、また安房、上総、奥州、羽州にわたる街道を見渡せる、家康は江戸城の東北の関門を此に求めたのであろう。」と記録されている[2]。 康政は、上野館林城、陸奥白河城、播磨姫路城などを賜わり、その後、寛保年間(1741?1744年)越後高田城に居住し、幕末、維新には15万石を領していた[2]。その間もこの池之端の屋敷は、榊原家の藩邸として使われ、幕末期は中屋敷だとする記録から、隠居藩主や嗣子などの住む屋敷であった[2]。この当時の庭園がどうだったのかは不明であるが、室町時代に造られたと思われる宝篋印塔や灯篭があることから、榊原家時代の物があるのではないかと思われる[2]。 旧岩崎邸庭園は、江戸時代の大名庭園から、明治時代初期に旧舞鶴藩主の牧野弼成邸となり、西郷隆盛の部下である桐野利秋の邸宅となり、明治11年(1878年)に三菱財閥初代の岩崎弥太郎が屋敷を構え、そして岩崎久弥と引き継がれた[3]。この様に管理者が変わったため、岩崎家の当時の庭がどうであったか、図面資料が無く不明な点が多く、そのため、栗野隆は解明するために岩崎家の関係者に聞いたり文献などによって、当時の庭園の状況を分析して推定復原図を作成した[3]。復原図によると、当時の庭園の規模がどうだったかや、弥太郎が造営した庭園の構成を基本として、久弥は洋館の完成後、洋館廻りを洋風芝庭に改造し、和館に廻りに書院風の庭園が増設したことが判明した[3]。 昭和20年(1945年)、終戦後、米国CIAキャノン機関に接収され、昭和23年(1948年)、米軍接収の旧岩崎邸を立教大学系の聖公会神学院が買い取り、和館を教室と説教場に、洋館は米軍が使用した[4]。
歴史
かつての池之端
岩崎家の時代
米軍接収と研修所