三笠ハウス(旧三笠ホテル)
ホテル概要
設計岡田時太郎
階数1 - 2階
部屋数30室
開業1906年5月
閉業1970年
最寄駅軽井沢駅
最寄IC碓氷軽井沢インターチェンジ
所在地〒389-0100
長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢字唐堀1339番342
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度22分23.5秒 東経138度37分34.5秒 / 北緯36.373194度 東経138.626250度 / 36.373194; 138.626250
旧三笠ホテル
施設情報
正式名称重要文化財・旧三笠ホテル[1]
前身三笠ホテル
事業主体軽井沢町
管理運営軽井沢町教育委員会
所在地〒389-0100
長野県軽井沢町大字軽井沢1339-342
プロジェクト:GLAM
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旧三笠ホテル(きゅうみかさホテル)は、長野県北佐久郡軽井沢町にある歴史的建造物。国の重要文化財。
三笠ホテルという名称は、敷地前方の愛宕山が奈良県の三笠山に似ていることから、有島生馬、里見ク、山本直光によって付けられたという。
概要玄関大正期に広間で開かれた晩餐会の風景。写真右から西尾忠方、近衛文麿夫人(千代子)、徳川慶久夫人(實枝子)、里見ク、有島武郎、毛利高範夫人(賢子)、徳川義親、山本直良、黒田長和、黒田長和夫人(久子)、近衛文麿、山本直良夫人(愛)。三笠通り
実業家山本直良によるホテル開業は1906年(明治39年)5月[2]。
建物は1905年(明治38年)に竣工した日本人の設計による純西洋風木造建築で、設計は岡田時太郎、監督は佐藤万平、棟梁は小林代造。アメリカのスティックスタイル(Stick style)を採用したゴシック風の華麗な外観で、扉のデザインはイギリス風、下見板はドイツ風、用材は小瀬のアカマツを現場で製材した。国際避暑地・軽井沢の雰囲気を当時のまま今に伝える貴重な名建築の1つである。
欧米人とともに渋沢栄一、団琢磨、住友友純、乃木希典、愛新覚羅溥儀といった著名人が多く宿泊したことから、「軽井沢の鹿鳴館」とも呼ばれていた[3]。上皇后美智子も独身時代に宿泊している。
現在は本館の一部のみが残るが、かつての広いホテル敷地内には、別館のほか、庭園、テニスコート、プール、クリケットヤードなどもあった。なかでも同じくホテル敷地内に設置されていた窯元では、名匠宮川香山によって幻の焼き物「三笠焼」が創出され、この窯元にはバーナード・リーチ、藤井達吉らも訪れた。
軽井沢駅から遠い立地であることから、古くは駅-ホテル間を馬車での送迎が行われていた[4]。旧軽井沢の市街地とホテルを結ぶ道は、「三笠通り」という名の美しい並木道となっており、「新・日本街路樹100景」に選出されている。
なお、かつてホテルで振る舞われていたカレーとコーヒーは当時のレシピをもとに再現されており、食べることができる。 1906年(明治39年)、営業を開始し、客室は30室、定員は40名、宿泊料は一等が12円、二等が8円、三等が5円。1907年(明治40年)、日本館が完成したが、1910年(明治43年)8月、明治43年の大水害のため流出した(なおこのとき、ホテルには渋沢栄一、森村市左衛門、成瀬仁蔵が宿泊していた)。その様子は当時のニューヨーク・タイムズにも”The Mikasa Hotel Destroyed”と報じられた[5][6]。 1919年、洋風別館が完成。1925年(大正14年)に経営母体が変わり、(株)三笠ホテルとなり、明治屋に名義変更した。 1944年(太平洋戦争中)、休業した。また軽井沢が駐日外国人の主要疎開地として指定されたことから、外務省の軽井沢出張所が設置された。
歴史