旧マサチューセッツ州会議事堂
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旧マサチューセッツ州会議事堂
アメリカ合衆国国家歴史登録財
アメリカ合衆国国定歴史建造物

旧州会議事堂の西側正面(2003年7月ころ)。
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所在地アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯42度21分31.57秒 西経71度3分28.1秒 / 北緯42.3587694度 西経71.057806度 / 42.3587694; -71.057806座標: 北緯42度21分31.57秒 西経71度3分28.1秒 / 北緯42.3587694度 西経71.057806度 / 42.3587694; -71.057806
建設1713年
建築家原建築者は不明。1748年再建、その後数度改修[3]
建築様式ジョージア様式
NRHP登録番号66000779 [1][2]
指定・解除日
NRHP指定日1966年10月15日
NHL指定日1960年10月9日

旧マサチューセッツ州会議事堂(きゅうマサチューセッツしゅうかいぎじどう、:Old State House)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンにある、同州の旧議事堂である。ワシントン・ストリートとステート・ストリートの交差点に位置する。

1713年に建築され、アメリカで最古の公共の建物の1つであり、1798年までマサチューセッツ州議会が行なわれていた[4]。現在、ボストンの歴史学協会であるボストニアン・ソサエティが歴史博物館として運営している。ボストンで現存する最古の公共の建物であり、ボストンのウォーキングルート、フリーダムトレイルが通る観光スポットの一つとなっている。1960年にアメリカ合衆国国定歴史建造物に、1994年にボストン・ランドマーク委員会によりボストン・ランドマークに認定された。また新世界の中で選挙により選ばれた議会の議事堂としても初めてのものである。
歴史
1713年-1776年、マサチューセッツ湾植民地役場

現在のレンガ造りの旧州議事堂は、1712年から1713年にかけて建設されたもので、ロバート・トウェルヴズによって設計されたものではないかと考えられている。その前には1657年に建てられた木造の役場があったが、1711年に火事で焼けてしまった[5]イギリスの国章である7フィート(2メートル)の木造のライオンとユニコーンを特徴としていた。

もともと、この建物には1階に商人の取引所、地下室に倉庫が設けられていた。2階の東側には総督の会議室、西の端にはサフォーク郡裁判所及びマサチューセッツ邦最高裁判所の裁判官室が置かれていた。2階中央には選挙で選ばれたマサチューセッツ邦議会の議場が置かれた。この議場は、公衆の傍聴席があることで注目され、選挙された議員の議場に傍聴席が設けられた例としては、知られている限り英語圏で初めてである[6]

1747年火事に遭った後、1748年に内部が再建された。1712年から1713年に建てられたレンガの壁は火事による焼失を免れた[7]

1761年、弁護士のジェイムズ・オーティスが、総督会議室で、援助令状(関税徴収に関する捜査協力令状)の発付に対し反駁する弁論を行った。オーティスは敗訴したものの、その弁論はアメリカ独立戦争へつながっていく一つの出来事となった。独立戦争中、印紙法会議がマサチューセッツ邦議会で結成された[8]ポール・リビアによる版画。ペイトリオットの視点でボストン虐殺事件が描かれ、背景にはこの建物が描かれている。

1770年3月5日、5人の植民地人がイギリス兵によって殺されるボストン虐殺事件が、この建物の東側すぐの場所で起きた。トマス・ハッチンソンがバルコニーから群衆に帰宅するよう語った[9]
1776年-1798年、マサチューセッツ州会議事堂トーマス・クラフツ大佐(1777年頃)。独立宣言書が読み上げられたバルコニーのある東側正面。屋根のユニコーンとライオンは、イギリスの紋章に使われているシンボルである。

1776年7月18日、アメリカ独立宣言が、トーマス・クラフツ大佐(自由の息子達の1人)によって、この建物の東側バルコニーから、沸き立つ群衆に対して読み上げられた。午後1時、まずクラフツが議場の中で立ち上がり、議員らに対して独立宣言書を読み上げた[10]。そしてウィリアム・グリーンリーフ保安官がバルコニーからそれを読み上げようとしたが、声がかすれて出なかった。そこでクラフツが保安官の隣に立ち、力強い声で独立宣言書を読み上げた。

その後、合図を受けて、フォートヒルの要塞から13発の大砲が鳴らされた。ドーチェスター・ネック、キャッスル、ナンタスケット、ポイント・オールダートンの要塞でも、同じように大砲を発射した。さらに、砲兵分遣隊が大砲を13回発射し、それに続いて二つの連隊が13の部隊から続けざまに13発を撃ち鳴らした。13発という数字は、この時独立したアメリカの邦(後の州)の数である。式典は、議場のメンバーらの軽食で締めくくられた。議長が次のものに対して乾杯し、列席者がこれを固く誓った。

アメリカ合衆国の繁栄と永続

アメリカ議会

ワシントン将軍及びアメリカ合衆国軍の成功

暴君と暴政の打倒

市民的・宗教的自由の普遍的な広がり

地球上のあらゆる場所にある合衆国の友

ボストン市民の3分の2が革命を支持しており、街の鐘が鳴らされ、皆が祝祭を喜び合った。その夜、イギリス国王の紋章やそれに類するマーク――ライオンと王冠、乳棒と乳鉢、心臓と王冠など――は、トーリー党のマークとともに取り払われた。屋根の上のライオンとユニコーンはキング・ストリートで焼かれた[11]

アメリカ独立戦争の後、この建物はマサチューセッツ州政府が1798年に現在の議事堂へ移転するまで、州会議事堂として使われた。
1830年-1841年、ボストン市役所

1830年から1841年まではボストンの市役所として用いられた。それまで市の事務所は郡庁舎の中にあった。1830年、アイザイア・ロジャーズにより、現存するらせん階段を含むグリーク・リバイバル様式への内装の改築が行われた。1832年には再び火事で損傷した[5]

当時、市役所は郵便局のほか民間企業と建物を共有していた。1835年10月21日、セオドア・ライマン市長は、暴徒に追われていた反奴隷制度新聞『リベレイター』編集長のウィリアム・ロイド・ガリソンをこの建物内に一時的にかくまった。その後一晩リヴレット・ストリート刑務所に保護されたが、暴動を引き起こしたとして告訴された[10]。1841年、市役所はスクール・ストリートにある旧サフォーク郡庁舎に移転した[12]
1841年-1881年、商業ビル

ボストン市役所が移転した後、商用に転換された。かつて州議事堂から市役所に転換するまでの間にも一時的に商用利用されていた。仕立て屋、衣料品店、保険会社、鉄道会社などが入居していた。一度に50社が入居することができた。[13]


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