日高晤郎
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日高 晤郎
本名細谷 新吾(ほそたに しんご)[1]
ニックネーム晤郎さん
生年月日 (1944-02-28) 1944年2月28日
没年月日 (2018-04-03) 2018年4月3日(74歳没)
出身地 大阪府大阪市西成区山王
血液型A型[2]
言語日本語
師匠八代目 市川雷蔵
勝新太郎
事務所日高エージェンシー
活動時期1961年 - 2018年
過去の代表番組ウイークエンドバラエティ 日高晤郎ショー
他の活動ラジオパーソナリティ
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日高 晤郎(ひだか ごろう、1944年昭和19年〉2月28日[3] - 2018年平成30年〉4月3日[4])は、日本芸人ラジオパーソナリティ歌手俳優声優。生前は東京都杉並区荻窪に居住していた。
略歴

大阪市西成区山王町(当時)出身。出生後、父親は「新吾」という名前だけを付けて出奔し、以後行方不明となった。家族は母親のほか、妹が1人。極貧の母子家庭に私生児として生まれたため、出生届が提出されていなかった。貧乏で栄養失調で、このままでは生きることが難しいと案じた母親の考えにより、細谷家へ養子に出された9歳の時に、戸籍訂正審判を経て初めて戸籍が作られ1944年2月28日生まれとなった。内田新吾として生まれ、その後「田中」に姓が替わり、そして存命中の本名である「細谷新吾」となった。

養子先も決して裕福ではない万年筆の下請け工場だったため、あくまで「人手」「働き手」として生活を送ることとなった。小学校から高校までは学費が払えず、小学校の時は当時の担任のポケットマネーで通った。この担任は日高が卑屈にならないように学芸会で主役をやらせたり、大勢の生徒の前で歌を歌わせるなどをしたが、これがきっかけで歌や芝居の楽しさに気づくことになった。その先生の勧めもあって学校の図書の本をすべて読み終える事を卒業するまでに達成したことを生のラジオ番組で語っていた。

1960年、コックの見習いをしながら高校に通っていた時、スポーツ新聞で見た、大映主催の「第1回ミス・ミスターフレッシュフェイスコンテスト」に応募。中学校で演劇部だった経歴を活かし、優勝を飾る。大映京都撮影所演技研究所に入所(第2期生)。

1961年、新人俳優「細谷新吾」を名乗り、八代目 市川雷蔵の相手役として、映画『江戸へ百七十里』で1962年にデビューする[5]。雷蔵に才能を認められ、もっと学びたい新吾のためにと、雷蔵の推薦で一時期は劇団くるみ座毛利菊枝の下で、「特待生」として座員と共に演技や台詞の基礎を学んでいる[注釈 1][6][出典無効]。その後、勝新太郎にも目をかけられ、2人の師匠の下で、数々の映画に出演。

1965年、「もっと活動の場を広げて修行したい」との志で、勝とのつてがある人を見つけ出し、上京を決意[6]。大映を退社。活動の場を既に斜陽となっていた映画界から、テレビドラマに移す。芸名を「飛鷹 一(ひだか はじめ)」に改名[7]。勝は新吾の固い意志を理解し、上京に猛反対する新吾の養父に自ら土下座し、説得した。一方、自らの出自と重なる部分に同情したり笑顔を欠かさない新吾を気に入り、レッスン料を負担するなど面倒を見ていた雷蔵も[6]、自分の映画に準主役級の役を用意していたところでの報せで、残念がる一方「確かに、お前にここは狭すぎる」と理解を示した。

こうして上京を果たすが、当然満足に仕事にはありつけず、この頃から弾き語りやクラブのボーイなどで日銭を稼ぎ、食い繋ぐ生活となる。後年ディナーショーなどで披露していたフラメンコギター演奏はこの頃に学んだものである。

雷蔵の「売れてないと思うと売れてない顔になる。まだ売り出してないと言え」の言葉を胸に[6]、雷蔵を安心させようと「某局のプロデューサーから目をかけてもらった」などと嘘の手紙を書いていたが、当の雷蔵は周囲の後輩俳優に「新吾は偉いやっちゃなぁ。毎月、こうして手紙をくれるが、喰えていない事くらい俺にもわかる、しかし喰えない時に、こうして見栄を張れるというのは立派なもんや。見栄があるから保っていられるんや」と話し、しっかり見抜きながらその姿勢を褒め、撮影で上京する度に新吾に会いに行った。

1967年、クラウンレコードから「流れ者小唄 (B面:東京阿呆鳥)」で、歌手デビュー。「飛鷹だと読みにくい」との理由で付けられた芸名が「日高吾郎」で、これがその後の芸名となる(のちに晤郎と改名)。以後、3年間で、LP盤を含め10枚のレコードを発売。

1969年7月17日、役者としての日高を認め、その後も支え続けた師匠、市川雷蔵が転移性肝がんのため37歳の若さで死去。日高はその訃報を、仕事で疲れて帰宅した新宿の自宅に配達された夕刊で知り、その夕刊を抱き締め涙を流した[6]。「役者」でなく「歌手」として師匠の死を知ることとなった事に大きな衝撃を受け、これを契機にレコード歌手を断念。その後は俳優として、テレビドラマの出演、ワイドショーのレポーター、声優として洋画の吹き替え、ラジオドラマの出演などの活動を続ける[注釈 2]。テレビドラマは、大河ドラマ元禄太平記』(1975年)の片岡源五右衛門役。『特別機動捜査隊』(NETテレビ)の日高刑事(高倉班)・田代刑事(日高班)役などのレギュラー出演で知られた。

1977年、かつての役者仲間が、北海道札幌市西区琴似のキャバレーでショーステージのための出演契約などのブッキング担当である「箱入屋」(はこいれや)をしており、「1週間でも、3日間でもいいから……」と懇願され、ステージを務める。その話芸の巧みさ、誠実な仕事ぶりや人柄が、キャバレーのオーナーに気に入られ、3日間のステージを務め上げたあとは「オーナーの遊興仲間」として、1か月間滞在。オーナーからは「すっかり長居をさせて申し訳なかった。来月も来い」と再び札幌に呼ばれたものの、仕事のあてもない日々を過ごしていた。そんな時「本当のところ、何をやりたいのか」と問われ、「今までやったことが無い、自分のラジオ番組がやってみたい」と話したところ、紹介されたのが、札幌テレビ放送ラジオ局(現・STVラジオ)のディレクター(当時)、岩本芳修[注釈 3]だった。これをきっかけにSTVラジオへの継続的な出演がスタートする[10]

1983年4月、『ウイークエンドバラエティ 日高晤郎ショー』がスタート。ユーモア、ウイットに富み、知性や暖かみを感じさせる一方、シニカルで歯に衣着せぬ毒舌は時として、STVテレビやキー局である日本テレビの番組自体にも向けられるが、リスナーの支持を集め、翌年、放送時間を3時間から8時間に拡大。4年目の1987年には9時間に拡大するなどした。その後、日高が死去する2018年まで放送開始から35年間、メインパーソナリティを務めた。

1989年10月にはラジオでの人気を受けてテレビに進出。トークバラエティー『日高晤郎のスーパーサンデー』をスタートさせ、5年3カ月にわたり司会をつとめる。


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