日高国(ひだかのくに)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つである。別称は日州、高州。五畿八道のうち北海道 (令制)に含まれた。領域は現在の日高振興局管内にあたる。 『日本書紀』景行天皇27年2月12日条に、「東の夷の中に日高見国あり。(中略)是を総べて蝦夷と曰ふ。」とみえることから、松浦武四郎がこの日高見国に当地をあてて「日高」と上申したことによる[1]。 ここでは日高国成立までについても記述する。 鎌倉時代以降には日の本[注釈 1] と呼ばれる蝦夷(えぞ)がおり、蝦夷管領・安東氏はこれを統括した(『諏訪大明神絵詞』)。 江戸時代ころになると、松前藩によって松前藩家臣が蝦夷と交易を行う七ヶ所の場所と呼ばれる知行地が開かれた。藩の出先機関の機能も兼ね備えた運上屋では、撫育政策としてオムシャなども行われた。制度的な詳細は商場(場所)知行制および場所請負制を、漁場の状況については北海道におけるニシン漁史を参照されたい。後に置かれた郡との相対は下記のとおりである。 江戸時代初期、天台宗の僧・円空が修行のため訪れ、様似などに足跡を記した。1611年(慶長16)の巨大地震により、沙流川流域に大きな津波が押し寄せた。平取町ニナツミチャシ遺跡 江戸時代から明治時代初頭の交通について、陸上交通[3]は、渡島国の箱館から道東や千島国方面に至る道(浦河以西は国道235号の、浦河以東は国道336号の前身)の途上であったが、沿岸部に一部地形が険しい難所があったため、寛政11年蝦夷地取締御用を命ぜられた大河内善兵衛政寿は中村小市郎、最上徳内らに命じ様似郡の様似山道および幌泉郡の猿留山道などを開削させた(国道336号の前身)。これらの山道は享和2年12月から翌3年にかけて南部藩によって修繕されている。また、伊能忠敬や松浦武四郎なども通行している。冬島?幌満間の様似山道は道程3里(12キロ)弱であったが「コトニ小休所」が設けられ、明治6年には山中に旅籠屋「原田宿」が建てられている。日高国内の河川には藩政時代から廃使置県までの間16箇所の渡船場数があり渡し船なども運行されていた。海上交通は、和人地や畿内などとの間に北前船の航路が開かれ沙流郡門別や様似などにも寄航していた。 江戸時代後期、日高国域は東蝦夷地に属していた。国防のため寛政11年東蝦夷地は公議御料(幕府直轄領)とされ、寛政12年(1800年)伊能忠敬が沿岸部を測量。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び公議御料となり仙台藩が警固を担当した。 蝦夷三官寺の一つとして文化年間に建立された等?院が様似郡にある。
「日高」の名称と表記
沿革
サル場所・・・後の沙流郡
ニイカップ場所・・・後の新冠郡
シツナイ場所・・・後の静内郡
ミツイシ場所・・・後の三石郡
ウラカワ場所・・・後の浦河郡
シャマニ場所・・・後の様似郡
ホロイズミ場所・・・後の幌泉郡
明治2年(1869年)8月15日に日高国7郡が制定され、79村が属した。また、同年8月から明治4年(1871年)8月まで5郡が道外の藩や士族、寺院などによって分領支配される。
明治15年(1882年)2月8日、廃使置県にともない札幌県の所管となる。
国内の施設
寺院
神社
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