日韓関係史
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この項目では、日本と朝鮮半島の関係史について説明しています。

日本と朝鮮民主主義人民共和国との間の二国間関係については「日朝関係」をご覧ください。

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日朝関係      

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日朝関係史(にっちょうかんけいし)では、日本朝鮮半島の両地域及びそこに存在した国家間の関係の歴史について概説する。
古代
旧石器時代から弥生時代紀元前1世紀頃の東夷諸国と楽浪郡の位置
初期の交流

旧石器時代から縄文時代にかけては、黒曜石が丸木舟によって運ばれて長距離交易の品物になった。現在の佐賀県にあたる地域から産出した黒曜石が、朝鮮半島の釜山にある東三洞貝塚からも出土している[1]新石器時代の朝鮮半島の土器は、対馬壱岐から発見されている。7000年前の縄文時代前期には、九州北部と朝鮮半島南部には漁撈民が移動生活をしながら海峡を往来していた。朝鮮半島の南部では縄文土器が発見されており、日本列島では対馬・壱岐、九州北部から朝鮮半島由来の櫛目文土器があり、釣針や中国製耳飾りも運ばれた。こうした交流は、漁の途中で一時的に海岸に立ち寄りながら行われていた。石器時代ののちには、朝鮮半島の金属器を求めて海を渡るようになる[2]
農作物の渡来

7000年前には中国の長江流域で水田稲作が始まっており、日本に渡来した経路については、朝鮮半島のルート、大陸からの直接ルート、南西諸島のルートに大きく説が分かれる[3]。稲作の渡来経路の研究として、遺伝子の研究、各種遺跡からの出土品からの農具や儀礼の研究、水耕田跡の調査などが行われている。日本および朝鮮半島、遼東半島などの極東アジアに存在する稲は、温帯性ジャポニカ種と熱帯性ジャポニカ種の大きく2種類にわけられる[4]。青森県の高樋III遺跡や滋賀県の下之郷遺跡をはじめとして、弥生時代の遺跡からは温帯性と熱帯性の双方が発見された。稲の在来品種のDNAを核SSR(シンプル・シーケンス・リピート)法で分析した結果では、大陸からの渡来は朝鮮半島と日本列島の双方に認められた[5]。日本で稲作が始まった時期は紀元前10世紀後半、場所は北九州の玄界灘沿岸からで、唐津の菜畑遺跡や福岡の板付遺跡が最古のものとされている。大規模な渡来は大きく3回にわたり、紀元前7世紀-8世紀、紀元前4世紀-5世紀、紀元前2世紀-3世紀とされる。朝鮮半島から壱岐を経由した種や、大陸から北部九州に直接渡来した種があったことが判明している[3][6]
国の成立

弥生時代の後半から、朝鮮半島との交流が活発になる。北部九州と朝鮮半島南部では海人族が沿岸や島々で活動しており、権力者は海民を通して青銅器や鉄器を入手した。弥生時代には、丸木舟に代わって準構造船の船団で航海が可能になり、運搬する物資も増えていった[1]。海村のネットワークにより海路が緊密になり、国々が成立した。大陸からの進出もあり、前漢の武帝衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を建設して、漢の制度にもとづく地域となった。楽浪郡では土器、青銅器、鉄器が生産されて、中国各地からの物産も集まった。高句麗に征服されるまでは、楽浪郡から中国製の器物が朝鮮半島や倭国に流通して技術も伝わっていった。日本と朝鮮半島をつなぐルートは、洛東江の狗邪国と、北部九州の奴国伊都国が結びついた。狗邪国から壱岐、対馬を経由して北部九州に着くルートが『魏志倭人伝』に書かれている。邪馬台国の時代には、一大率という役職が伊都国に派遣されていた[7][8]
倭国と朝鮮三国時代三国時代の地図、5世紀終わり頃。半島西南部の解釈には諸説がある。

日本列島が古墳時代のころの朝鮮半島は、北には高句麗、東には新羅、西には百済の3国が並び、三国時代とも呼ばれている[† 1]


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