日韓歴史共同研究
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この記事は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため、中立的でない偏った観点から記事が構成されているおそれがあり、場合によっては記事の修正が必要です。議論はノートを参照してください。(2023年10月)

日韓歴史共同研究(にっかんれきしきょうどうけんきゅう)とは、2002年から2010年まで2回にわたり日本韓国が共同で行った歴史研究のことである。

第1回日韓歴史共同研究は、2001年の日韓首脳会談の合意に基づき、2002年から2005年にかけて行われ、2005年6月に報告書が公開された[1]。第2回日韓歴史共同研究は、2005年の日韓首脳会談の合意に基づき、2007年から2010年にかけて行われ、2010年3月に報告書が公開された[2]
研究不成功の原因

当研究が不成功に終わった主な原因として、委員の1人である木村幹は「日韓の政治的意図の介在」「共同研究の制度的不備」「対立を解決する為の手段の準備不足(全会一致か多数決かという基本的なルールさえ存在しなかった)」の3点を挙げている[3]
日本側研究者が見た韓国側研究者の態度

この研究委員会に参加した古田博司によると、日韓の意見が対立した時に、日本側が「資料をご覧になってください」と言うと、韓国側は立ち上がって「韓国に対する愛情はないのかーっ!」と怒鳴り、日本側がさらに「資料を見てくれ」と言い返すと、「資料はそうだけれど」とブツブツ呟いて、再び「研究者としての良心はあるのかーっ!」と怒鳴ったという。このような韓国側研究者について古田は、「民族的感情を満足させるストーリーがまずあって、それに都合のいい資料を貼り付けてくるだけなので、それ以外の様々な資料を検討していくと、矛盾、欠落、誤読がいっぱい出てくる」、「要するに『自分が正しい』というところからすべてが始まっており、その本質は何かといえば『自己絶対正義』にほかならず、したがって何をやろうと彼らの『正義』は揺らがない」等々、批判的に評している[4]

第2回研究では、韓国側の要求により教科書が研究テーマに加わえられたが、教科書小グループの日本側委員の一人だった永島広紀によると、韓国側では日本側に無断で教科書問題を古代史の研究テーマに加えようとするなど、教科書担当以外のグループが教科書問題に介入を始めた。日本側が抗議すると、韓国側の古代史担当者の一人が「人格攻撃を受けた」と言い出し、長期間会合が紛糾したこともあったという。永島によれば、韓国側の研究者は扶桑社の『新しい歴史教科書』への攻撃に終始していた[5]
第1回報告書

第1分科(古代)

濱田耕策 - 「4世紀の日韓関係」

金泰植 - 「4世紀の韓日関係史?広開土王陵碑文の倭軍問題を中心に?」

石井正敏 - 「5世紀の日韓関係?倭の五王と高句麗・百済?」

盧重国 - 「5世紀の韓日関係史?『宋書』倭国伝の検討?」

佐藤信 - 「6世紀の倭と朝鮮半島諸国」

金鉉球 - 「6世紀の韓日関係?交流のシステムを中心に?」



第2分科(中近世)

田代和生他 - 「偽使」

六反田豊他 - 「文禄・慶長の役(壬辰倭乱)」

吉田光男他 - 「朝鮮通信使(中世編)(近世編)」

伊藤幸司 - 「日朝関係における偽使の時代」

橋本雄 - 「朝鮮国王使と室町幕府」

米谷均 - 「朝鮮侵略前夜の日本情報」

六反田豊 - 「文禄・慶長の役(壬辰倭乱)開戦初期における朝鮮側の軍糧調達とその輸送」

吉田光男 - 「日本における韓国中近世史研究教育基盤―大学・学界・研究工具―」

田代和生 - 「朝鮮国書・書契の原本データ」

韓文鍾 - 「偽使研究の現況と課題」

朴晢晄 - 「壬辰倭乱(文禄・慶長の役)研究の現況と課題」

張舜順 - 「通信使研究の現況と課題」韓文鍾「朝鮮前期の倭人統制策と通交違反者の処理」

韓文鍾 - 「朝鮮前期の倭人統制策と通交違反者の処理」

鄭求福 - 「壬辰倭乱の歴史的意味?壬辰倭乱に対する韓・日両国の歴史認識?」

洪性徳 - 「朝鮮後期における対日外交使行と倭学訳官」

孫承 - 「中・近世の韓日関係史に関する認識の共通点と相違点」

趙b - 「通信使に関する韓国学界の研究成果と争点事項」



第3分科(近現代)

坂元茂樹 - 「日韓間の諸条約の問題―国際法学の観点から」

鄭昌烈 - 「乙巳条約・韓国併合条約の有・無効論と歴史認識」

李相燦 - 「(補論)1900年代初、韓日間諸条約の不成立再論」

原田環 - 「東アジアの国際関係とその近代化―朝鮮と越南―」

張寅性 - 「近代東アジア国際秩序と近代化」

佐々木揚 - 「露朝関係と日清戦争」

趙明哲 - 「20世紀初日本の大陸政策と韓国問題」

森山茂徳 - 「植民地統治と朝鮮人の対応」

徐仲錫 - 「日帝の朝鮮強占と韓国の独立運動」

木村健二 - 「日中戦争前後の朝鮮における「科学的経営法」の導入」

井上和枝 - 「韓国「新女性」と「近代」の出会い」

林廣茂 - 「京城の五大百貨店の隆盛と、それを支えた大衆消費社会の検証―主として昭和初期から同15年前後まで―」


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